多少の後味の悪さはあったものの、矢代の件も解決した。安堵でいっぱいになった部員たちは、練習後、いつもより足取り軽くカモメへと向かう。
部員たちは、矢代との友情を取り戻して嬉しい反面、彼が新体操部を陥れようとしていたことを突きつけられた悲しみにも襲われている金子を励ましながら、オムライスを食べる。和気藹々とした雰囲気が、久々に戻ってきたようだ。
「金子も跳べたし、もう何も言うことねえな!」
「うんうん、オムライスも今日は一段とおいしい気がするし?」
「そっすね! あ、いつでもうまいっすけど!」
特に航、亮介、日暮里のテンションは上がっているようで、オムライスを崩していくペースも速い。
こうして彼らと何のわだかまりもなく楽しめるようになって、本当によかった。
オムライスを食べ終わった後、は微笑みつつ、航の肩に手を置いた。
「さて、航」
「ん?」
なるべく不穏な空気を感じさせないよう、柔らかな笑みを意識する。しかし、それは逆に不自然さを際立ててしまったようで、航だけではなく、部員たちの表情まで、強張った。
「何も言うことなくなったところで、お勉強に集中しようか、航くん」
「!」
口を大きく開けて、航が後ずさる。
様々なことが一段落したおかげで、彼の頭の中からは、追試の二文字は消え去っていたようだ。逃げようとした彼の腕を掴む。
「ほらほら、ヤマをまとめたノートを作ったんだよ。これさえ丸暗記すれば、きっと大丈夫だって」
「丸暗記って、これ、10冊はあるだろ……」
「鬼だ、ねえさんが鬼だ」
「何か言ったかな、日暮里くん」
「すみませんっした! 兄貴、頑張って!」
ガッツポーズを作った日暮里と、誤魔化し笑いを浮かべての後ろに隠れた亮介。その二人を恨めしそうに見て、航は口をヘの字に曲げた。
しかし、そんな顔をしても、追試は待ってくれないのだ。もし彼が追試をパスできなければ、新体操部は戦力を欠くことになってしまう。航は、既に新体操部になくてはならない存在になっているのだから。
「まあまあ、航、大丈夫だって。のヤマは、本当に当たるから」
「ノート10冊丸暗記でパスできるなら、軽いもんだよ」
水沢と悠太もまた、の側についたようだ。新体操部を率いる立場にいる彼らからすれば、航がどれだけ勉強に苦しもうと、結果的に無事パスできれば何の問題もないわけだ。
航は、味方を探して視線をさまよわせるが、誰も目を合わせてくれなかった。
「まあ、丸暗記は冗談だけど。とにかくこれを使って赤点だけは何とか回避してよね」
「お、おう!」
元気よく返事をしながらノートを手に取る航と、恐る恐るそれを覗き込む亮介と日暮里。
「いやー、流石ねえさん! 見やすいっす!」
「ほんとほんと、さっすが。これだったら俺らも理解でき――」
感心したのも束の間、亮介はノートを覗きこんだまま固まってしまった。
「え、どうしたの?」
「あのさー、」
心底言いづらそうに、亮介が顔を上げる。航の目は、ノートに釘付けだ。同じ場所を注視したまま、瞬きすらしない。
「このノート、俺らにはちょっと、理解できないんだけど?」
「は?」
「何言ってるんですか、月森くん! さんのノートですよ、月森くんのノートじゃなくて」
「おいこら眼鏡、てめ、喧嘩売ってんのか? そうだろ?」
「やめろって、亮介」
金子に掴みかかろうとした亮介を止め、悠太が積み重なったノートから一冊を手に取る。彼が開いたそれを、水沢と金子が後ろから覗き込んだ。
「別に、普通のノートじゃないか?」
「うん、いつもどおりののノートだよ」
「はい、すごくわかりやすいです」
他の部員たちもまた、各々ノートを開く。誰の反応を見ても、航ほどあからさまな拒否反応を起こしている者はいない。
何故航たちだけが硬直しているのか、その理由は、亮介の一言によって示された。
「いや、俺ら、こんなことやった記憶ねえし」
そう、彼らは授業を理解しようとするどころか、聞こうとすらしない生徒たちだったのだ。どれだけがわかりやすく解説しようと、基礎知識すら頭に入っていない。
しかし、彼らの自業自得すぎる言い訳は、すぐに覆されることとなる。土屋が、黙ってノートを捲っていく木山を見て、首をかしげたのだ。
「でも、木山さんは……?」
「え、木山わかんの!?」
「……一応」
「マジかよ」
同じく授業に出ていなかったはずの木山は、理解しているのだ。これは彼らの能力の差としか言いようがなかった。
さて、ここで危機感を募らせたのは、当の航ではなく、だった。
「そっか」
妙に明るい声が、室内に響く。
顔を上げた航が見たのは、満面の笑みを浮かべただった。
「じゃ、航、都合よく土日があるから、私がきっちり叩き込んであげる」
「!」
「あ、僕も手伝います」
「ありがとう、金子くん!」
言葉をなくした航が、最後の抵抗とばかりに首をぶんぶんと横に振る。縋るように亮介の服を掴もうとしたが、その手は空を切った。亮介は既に、逃げていた。
泣く子も黙る東航が青ざめている姿に、部員たちは同情すればいいのやら、笑えばいいのやら、わからない状態のようだ。誰もが俯き、肩を震わせていた。そして、そんな中上がったのは、火野の冷めた声。
「よかったですね、これほど心強い家庭教師はいないんじゃないですか」
他人事だと思って!
そう叫んで、航が火野に飛び掛るまで、僅か一秒。そして、そんな彼に、一部始終を見聞きしていた母、奈都子の一喝が入ったのは言うまでもなく。
「明日が来なけりゃいいのに」
航が心の底から時を止めたいと願った日だった。
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