警察沙汰になってしまったことも、の気を重くさせる原因のひとつだった。
どう見ても不良で、加害者然としていた航たちがいたおかげで、どう見ても一般の生徒で、被害者然としていた悠太たちは全くのお咎めなしだったわけだが、騒ぎを起こしてしまったという点では、学校側から見たら同じだ。明日にでも呼び出しがかかるかもしれない。
「ただいま……」
家は静まり返っていた。
両親はいないのだろうか。そういえば、今日は二人とも町内会や婦人会の集まりがあるので外出する、と言っていた気がする。
食欲などなかったが、食事が用意されていたので、その前に座った。
冷えたハンバーグのラップをはがす気にもなれなかった。しばらく、空の茶碗のふちをなぞりながら、ぼんやりと時間を過ごした。
それから何分過ぎただろう。
二階からドアの開閉音が聞こえたことで、は我に返った。階段を下りてくる足音が聞こえる。慌てて皿を持ち上げて、電子レンジに突っ込む。ドアを閉める音が、やけに大きく響いた。
「遅かったじゃん」
「ああ、うん」
レンジの中を見つめたまま、かけられた声に答える。
「父さんたち、町内会と婦人会だって」
「知ってる」
短く答えて、炊飯器を開けた。かけていたメガネが、湯気で曇る。それはすぐに引いたが、の視界は何故かぼやけていた。
今は、例え弟であっても、いや、弟だからこそ話をしたくなかった。
「何してたんだよ、こんな時間まで」
「や、学校で先生に質問してたら、遅くなっちゃって」
嘘をついた。
暴力事件に巻き込まれたとは言えない。まさか、不良と付き合いがあるとは、言えるはずがなかった。そう言った時点で、この弟はまた、蔑んだ視線を自分に向けるだろうと思ったから。
振り返ると、鋭い目で自分を見つめる弟が立っていた。
慣れていることだと思っていたが、今の精神状態には、その冷たい目がひどく堪えた。
「姉ちゃん、東京の大学、目指してんだっけ」
「……うん」
「どうせまた、自信なくしたとか言って、やめるんだろ?」
「……」
何も言えなかった。
弟の、明るい髪の色が目に痛かった。昔は素直で明るかった弟が、今は捻じ曲がってしまった。それはきっと、自分のせいだ。きっと昔の自分は慢心していて、だからこそ、悲劇のヒロインを演じることにも抵抗がなかった。それが、弟の心に傷をつけたのだろう。
「皐、私は」
「聞きたくねえよ」
もう遅いのだろうか。
「姉ちゃんは昔から優しいって言われてたけどな、俺に言わせれば、そんなもん全部、独りよがりなんだよ。あんたの優しさじゃ、誰も救われない」
ひどく、傷ついた。
まるですべてを見透かしたかのような弟の言葉に、思わず手を滑らせた。持っていた茶碗が、床にぶつかって、弾けた。
誰も救われない、そのとおりだ。結局自分は今日、誰も救えなかった。
血が一筋、流れ出す。はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。
「さすがに男子部も、可哀想よね」
「あんな奴が入部したせいで、竹中まで呼び出されちゃって」
「迷惑だよね、ほんと」
次の日、悠太たちは職員室に呼び出された。葵たちの会話を聞きながら、は指に貼った絆創膏を撫でた。
教室に残っていた水沢と金子が、立ち上がる。彼らは、それまでずっと悠太を追いかけるべきかどうか迷っていたのだろう。足早に教室を出て行った。
「あ、そういえば、ねえねえ、さん。本当に月森亮介と付き合ってんの?」
「え……?」
「意外だよねー、さんって、ああいう不良には興味ないんだと思ってた! 大人しそうだし」
「付き合って、ないよ。あれは、月森が勝手に……」
勝手に、彼氏面をしているだけだ。何度断ってもしつこいから、飽きるのを待つことにしただけ。彼女らの言うとおり、ああいう不良には興味がない。出来れば関わりたくない。
ただ――
「月森は、悪い奴じゃない、けど」
面倒な男だとは思うが、昨日、助けてくれた。隠れていろと言ってくれた。
「でも、所詮不良でしょ?」
「そうそう。現に今、暴力事件起こして呼び出し食らってるし」
「あんまり関わらないほうがいいんじゃない?」
彼女らの言うことに賛同したい自分と、反対したい自分がいる。
昨日までなら、きっと彼女らの言葉に頷いて、愚痴のひとつでもこぼしていただろう。だが、今日は違った。
「月森が、暴力振るったのは、悠太くんたちを助けるためだから」
「確かにそうだけど、実際あの一年生の子、巻き込まれて怪我したんでしょ? 竹中たちも、迷惑だと思ってるよ」
「ほんと、女子にまで迷惑かかったら、どうしてくれんのよ」
何を言っても、否定されるのだろう。それは、これまで彼らが積み上げてきた日ごろの行いのせいだ。それは間違いない。
ただ、知ってしまった。
日暮里は、早朝から新聞配達のバイトをしていて、いつでもニコニコと笑っている。とても楽しそうに、東や月森と一緒にいるのが心底楽しい、という顔をして。
東は、動機は不純で、まだ文句ばかり言っているが、昨日、きちんと練習をこなした。
そして、月森は、勝手に人を彼女にするし、人目をはばからず追いかけてくるし、そのくせ他の女の子に声をかけるわ、人と一緒にいるときでもメールをするわ、とんでもない男だ。女の敵だ。だが、昨日、助けてくれた。
「私が、助けてって、言ったの」
「え?」
虫のいい話だ。普段は逃げ回って、冷たくして、ないがしろにしているくせに、ああいうときだけ助けを求めるのだから。
そう言って断っても良かったところを、月森はきちんと助けてくれた。もちろん、東が行ったから、という理由もあったのだろうが。
「だから、月森には、悪かったと思ってる。こういうときだけ都合よく月森を利用したんだから、私は。その結果が、これなんだから。悠太くんは呼び出されるし、土屋くんが怪我したから、団体にも出られなくなったし、私が全部」
――姉ちゃんの優しさは、独りよがりなんだよ
唐突に、弟の声が頭の中に蘇った。
まただ、自分は今、悲劇のヒロインを演じようとしていた。誰も救えない、それは事実だ。だが、それに酔うのは間違っている。
「……さん?」
突然黙り込んだを不審に思ったらしい葵が、軽く机を叩いた。
「ごめん、何でもない。でも、月森が暴力振るったのは確かに悪いことだけど、私が助けてって言っちゃったの。それで助けてくれるような奴だから、月森も、そんなに悪い奴じゃないんだよ」
いつの間にか、教室中が静まり返っていた。隣の席で、静かに雑誌を読んでいた木山が、を一瞥して、そうして軽く首を傾げた。彼は、何食わぬ顔で、言った。
「、月森、ずっとそこに立ってんぞ」
「え!?」
木山が親指で教室の外を指し示した。慌てて立ち上がって、外に出る。
確かに、そこには気まずげな表情で立っている月森がいた。
「つき、もり」
「いや、別に立ち聞きするつもりはなかったんだけど、ほら、まあ」
「や、あの、今のは」
「それより、授業始まるぞ」
照れたように表情を綻ばせて、月森は教室へ入ろうとした。
とっさに、その袖をつかんだ。
今の彼の表情に、心を動かした自分がいることに、はまだ気づいていない。愛想笑いでも作り笑いでも営業スマイルでもなく、おそらく、心の底からの表情の変化だったはずだ。そんな表情を、自分が引き出したということにも、気づいていない。
振り返った彼は、目を丸くしてを見下ろした。
言わなければならないことは、一つだけだ。
「昨日、助けてくれて、ありがとう」
口元を吊り上げる。笑顔など、今まで意識したことがなかったから、恥ずかしかった。
「……」
「ん?」
「もしかして、俺のこと好きになった?」
は、満面の笑みを浮かべて、言った。
「なってません」
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