東の練習に付き合うようになって、数日後。
 いつものように水沢と帰ろうとして、部室を覗いただったが、思わぬ事態が彼女を襲った。

、ちょっと来い!」

 突然、東が腕を掴んで部室を出たのだ。

「えっ、ちょ、東くん……!? わ、私何かしましたか!?」
「何もしてねえから悪いんだよ!」
「は、はい!?」

 意味がわからない。喧嘩の相手でもしろと言うのか。
 助けを求めて水沢を振り返ると、彼は笑顔で見送ってくれた。ますます意味がわからなくなった。

「どこ行くの?」
「良いから来い。心配すんな、危ないことはしねえからよ」

 自分の家とは、少し違う方向だった。いつもと違う道を通ることに多少の不安があったが、鬼より強い東がついているので、きっと怖いものなどない。

「ここだ」
「レストラン、カモメ……? はっ、私、お金持ってないよ!? おごれないよ!?」
「はあ? ふざけんな! 誰がテメーにおごらせっかよ!」

 連れてこられたのは、路地の奥にある一軒のレストランだった。
 東は躊躇いなくその扉を開いた。ドアベルが綺麗な音を奏でる。このおしゃれなレストランと東、どう見ても不釣合いだ。

「ただいまー」
「ああ、お帰り。遅かったわね、今日も練習してたの?」
「おう。今日は鹿倒立ができるようになったんだぜ!」

 何度も瞬きをした。今、聞き間違いでなければ、東はただいま、と言った。とすると、ここは彼の家で、今彼と話しているのは――

「母ちゃん、オムライス二つ」
「二つ? あら、航で見えなかった。こんばんは」
「こ、こんばんは……」

 この美人が、東の母親なのか。
 に気づいた彼女は、東航の母親だとは思えないほど愛想の良い笑みを浮かべた。思わず見惚れる。

「珍しいじゃない、女の子連れてくるなんて。まさか彼女?」
「ちげーよ! 誰がこんな女!」
「航、何てこと言うの。ごめんね、この子ってば」

 一言で東を黙らせるのだから、やはり彼女は、正真正銘の母親なのだろう。この年頃の男子は母親に反抗するのが仕事のようなものだが、東はそうではないようだ。また意外な一面を見てしまった。

「あ、東くんのクラスメートの、です」
「へえ、クラスメート。クラスに亮介たち以外の友達がいたのね」
「おう」

 いつも迷惑ばかりかけてるでしょう?
 彼女はそう言って、苦笑した。今のところ、個人的には迷惑をかけられていないので、とりあえず首を横に振っておいた。

「こいつ、亮介の女なんだよ」
「あら、そう。珍しいわね、亮介の彼女とあんたが知り合いってのも」
「ちが、違います! 私は、あんな奴とは付き合ってません!」

 がそう大声で否定したときだった。
 ちょうど、背後のドアベルがカランと音を立てた。反射的に振り返る。
 目が合った。

「――!!」

 二人とも、大きく一歩後ずさる。
 そういうことか。とんだお節介者だったのだ、東航という男は。
 は月森からサッと目を逸らし、東を睨み付ける。だが、百戦錬磨の彼に、一介の女子の睨みなど全く効くはずもなく。

「母ちゃん、オムライス一個追加な!」

 東は、あっさりとそう言ってのけた。

「何やってんだよ。ほら、来い!」
「ちょ、航」

 流石の月森も、大いに焦ったようだ。
 東に腕を引っ張られながら、激しく抵抗している。だが、結局押し切られる形で、カウンターに座らされた。

「航、オムライスができるまで時間があるから、ジャージ、洗濯に出しときなさいよ」
「おう、そうだな!」

 お節介なのは母親譲りか。瞬時に事情を察したらしい東の母親は、さっさと東を上へ追いやってしまった。残されたのは、呆然と東を見送る月森と、立ち尽くすのみ。

ちゃん、座って」
「あ、はい……」

 ふらふらとカウンターに近寄り、月森との間に二つほど席を挟んで座った。
 それと入れ替わりに、月森が立ち上がる。付き合ってられっか、と呟いたのがはっきりと聞こえた。付き合っていられないのはこっちだ。その勝手な言い草にカチンと来て、は思わず月森を睨み付ける。
 だが、が何かを言い返すまでもなく、彼は座らざるを得なくなった。

「亮介、ここで逃げたら男じゃないよ」

 という、東の母親からの厳しい一言が飛んできたのだ。
 憮然とした表情の月森が、力なく椅子に座る。
 しかし、だからといって、二人が会話を交わすはずもなく。室内には、オムライスが出来上がる音だけが響いていた。

「……勘弁しろよ」

 ふと、月森が口を開いた。それは無意識に発せられた言葉らしく、彼は言い終わった後、ハッとしたように目を伏せた。
 それを横目で見たは気づいた。これはきっと、彼の素だ。
 いつも笑ってばかりで、何を言っても楽しそうな表情を崩さない彼が、明らかに苛立っている。それは余計なことをした東に対してか、それともに対してか、わからなかったが、どちらにせよ今彼には取り繕う余裕もないのだ。
 ここまで来たら、もうどうにでもなれ。はそんな投げやりな気持ちで、試しに挑発してみることにした。

「それはこっちの台詞なんだけど」

 目が合った。

「だったらお前が帰れよ。近寄るなっつったの、お前だろ」

 思ったとおりだ。女相手にとことん優しい彼が、まるで敵に見せるような表情と口調で喋っている。
 以前ならば、逃げ出していてもおかしくない状況だ。だが、は場違いにも思っていた。わかりやすい笑顔よりも、内側からにじみ出た本心が見える、今の表情のほうがいい、と。

「お言葉に甘えて、帰ります」
「え」
「帰れっつったの、あんたでしょ」

 楽しいかもしれない。月森の表情が、これほどコロコロと変わるのを見たのは、初めてだから。
 彼は、忌々しげに舌打ちをすると、立ち上がった。近づいてくる彼を見ても、不思議と怖くはなかった。

「俺、こんな捻くれた女、初めてかも」
「何でも言うこと聞くような、あんたの遊び相手と一緒にしないでよ」

 睨み合う。
 自分もまた、これほど彼に本心をぶつけることはなかったように思う。いつも受け流すばかりで、何も伝えたことがなかった。

「……何か言い返してみれば?」
「じゃあ、言うけどな」

 ここで彼が本心を語らなければ、それまでだ。また誤魔化そうとすれば、その瞬間に殴って出て行ってやろう。はそう決めていた。
 だが、月森の台詞は、予想の斜め上を行くもので。

「好き」
「は?」

 思わず素で返してしまった。
 てっきり、何か不満でもぶつけられるのかと思っていた。だが、それでもそれが彼の本心だと言うなら、受け入れよう、と。

「……だから、俺、ちゃんが好きなんですけどー」
「冗談にしか聞こえないんだけど、冗談だと思っていい?」
「いや、駄目! あーもう、悪かったって! お前が聞き返すから、照れたんじゃねえか! くそ!」

 流石に友人の家の椅子を蹴飛ばすわけにはいかなかったらしく、月森は床を蹴った。彼でも、照れるのか。好きという言葉など、それこそ何百回も口にしているだろうに。

「何か言えよ」
「えっ、いや、え……」
「もう一回言ってやろうか。好き。遊びじゃねえよ? 本当に好き」
「も、もう良いから! 何回も言わないでよ!」

 耐え切れなくなったのは、のほうだった。顔を背けて、照れているのがばれないよう、口元を押さえる。

「……月森」
「ん?」
「正直、私はまだあんたを信用できてないよ。でも……それは、私のせいでもあるから」

 首を傾げた月森を見上げる。

「これからは、もうちょっと優しくする。話も聞きたい。月森のこと、もっと知りたい」

 それは、ずいぶんと遠い道のりのように思えた。だが、ようやくスタートに立てたのだから、その第一歩を大事にしたい。
 願わくは、知れば知るほど失望する、などということにならないように。

「じゃ、俺と付き合う?」
「いや、それとこれとは話が別だ」
「何だよ、今の完全に付き合う流れじゃん」
「言ったでしょ。信用してないって。大体、あんただって私のこと何も知らないでしょ。私は、よく知らない人と付き合えるほど器用じゃないの。あんたと違って」

 月森から目を逸らして、カウンターに座る。
 一部始終を見ていた東の母親が、見計らったかのようにオムライスを一皿、の前に置いた。

「亮介も、オムライスできたから、食べていきな」
「はーい」

 もう一皿、それはのすぐ隣に置かれた。
 二人の間にあった距離が消え去ったことを、暗示しているかのような。
 二人は隣同士に座ると、オムライスを同時に口に運んで、顔を見合わせて笑った。




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