次の日の話だ。
 はいつものように音楽を聴く気にもなれず、のろのろと足を進めていた。
 昨夜、月森からは一通もメールが届かなかった。あの口を利いていなかった期間を除いて、そんな日はなかったというのに。毎日届いていた間は面倒だとしか思わなかったが、届かなくなると無性に気になる。やはり何かあったに違いない。
 気づけば月森のことばかりを考えている。それに気づいたときは、妙に居心地の悪さを覚えたものだ。
 ただ、今ではそれを受け入れている自分もいる。

「……月森が、好き?」

 そう呟いて、手を握り締める。
 まだ確信はない。だが、そのうちそれははっきりとした形を持って、目の前に現れるだろう。
 好き、とはっきり言うには、あと一歩が必要だろう。何か一つきっかけがあれば、気持ちは大きく動くに違いない。今はまだ、ただ一緒にいて楽しいという、それだけの関係だった。
 だが、一つだけはっきりしていることがある。
 月森の笑顔が、好きだ。
 あの笑顔を見ると安心できる。気持ちが明るくなる。彼がいたから、自分の学校生活は面倒なこともあったが、変化に富んでいて楽しかった。

 だが、大きな流れは、目の前に迫っていた。
 暖かい日差しの差し込む廊下を歩いていたは、ふと耳に届いた喧騒に気づき、足を止めた。気のせいかとも思ったが、どうも違う。首を傾げつつ歩いていると、それは徐々に大きくなってくる。
 まさか、と小走りで教室へ向かう。
 前方を歩いていた柏木と金子も、騒ぎに気づいたのか教室へ向かって駆け出した。
 案の定、怒鳴り声は3年E組の教室から聞こえていた。躓きながらも教室へ飛び込む。そして目に飛び込んできた光景に、は目を丸くした。

「東くん!!」
「月森!?」

 あの二人が、睨み合っている。考えもしなかった光景だった。
 日暮里が月森を、柏木が東を、それぞれ後ろから押さえ込んだ。だが、それでも二人の睨み合いは終わらない。
 は、呆然とした。
 いつでも余裕を崩さない彼が、あれほど怒りをむき出しにしているところを、初めて見たから。そして何よりも、その目に隠しきれない震えがあったから。

「……月森」

 まるでシンクロしたかのように、自分の声も震えた。
 月森を怖いと思ったのは、彼と初めて出会ったとき以来だ。いや、あの時以上に、今の彼は恐ろしかった。自分にまで牙を剥いてきそうで、ひどく傷つけられそうで。
 そして、そう思ってしまった自分が悲しい。
 月森にも、その感情が伝わったのだろうか。彼はから目を逸らすと、自分を抑えていた日暮里を近くの机に叩きつけて、出て行ってしまった。

「……っ!」
「に、日暮里くん、大丈夫……!?」
「……っす、大丈夫っす、でも、姐さん……」

 日暮里もまた、ひどく傷ついた顔をしていた。
 近寄って助け起こすと、彼は泣きそうな声で何があったかを教えてくれた。

「亮介さんが、兄貴のこと、ダチじゃないって……」
「……」
「姐さん、どうしたら良いんすか」
「うん……」

 日暮里の肩を軽く叩き、は彼に自分のスクールバッグを押し付けた。
 自分に何ができるかはわからない。だが、昨日彼は笑顔を見せてくれた。そして、さっき自分が彼に見せてしまった恐怖心を否定したかったから、追いかけた。

「――月森!」

 大きな音が聞こえたので、その方向へ向かって走った。案の定、ゴミ箱を蹴飛ばしている月森がそこにはいた。

「月森、待って……」
「ついてくんなよ」

 肩で息をしている彼は、声をかけても振り返らなかった。
 低い声に、心臓をつかまれたような気持ちになって、背筋が凍りつく。もしも振り返った彼が、東に見せたような表情をしていたら。きっと何も言えなくなってしまう。

「……月森」
「お前さ」

 口を開いた瞬間、それを遮るように月森が振り返った。
 眉間に皺が寄っていて、舌打ち交じりの言葉が吐き出される。だが、それに恐怖は感じなかった。むしろ彼のほうが何かに怯えているような、そんな印象さえ受けた。

「俺に八つ当たりされてえの?」
「月森は、そういうことしない」
「お前に何がわかんだよ」

 首を横に振る。確かに、彼との付き合いはまだ短いし、知りたいと言った割りに、まだ全然知れていない。だが、わかる。月森は絶対に、自分に対して理不尽な暴力など振るったりしない、と。
 一歩、月森に近寄る。

「わかんないから、教えてよ。何があったの」
「お前には関係ねえだろ」
「月森!」

 拒絶しないでほしい。手足が震えたが、絶対に目を逸らしたくなかった。
 だが、そんなの思いも空しく、月森が目を逸らした。

「私じゃ、駄目なの?」
「……」
「月森……私、月森の力になりたい」

 それだけしか言えない。
 自分に解決できるとは思わないが、話してほしい。そうすれば、もしかしたら力になれるかもしれないから。

「――馬鹿じゃねえの」

 月森は、それだけをボソリと言うと、唐突にの腕を掴んだ。
 驚きと痛みで顔をしかめる。見上げた彼の表情は、やはり何かに怯えているようで。
 は、動けなくなった。ただ、この腕の痛みはきっと、彼の痛みでもある。それならば、全て受け止めてやろう。
 彼がそれを馬鹿だと言うならば、それでも良い。

「俺のこと、嫌いになれば?」
「――」

 彼の声は、明らかに震えていた。ひどく傷ついているのか。嫌いになれと言うその言葉が、の胸を抉った。
 つかまれた箇所が、熱を持って、そこから全身に熱が広がっていく。
 視線が交わる。怒りと怯えが混ざったような表情のまま、月森はの唇に触れた。
 拒絶はしなかった。だが、嬉しくも何ともない。こんな形で彼への思いを自覚したくなかったという、諦めが心に宿っただけ。

「……っ月森、わたし」
「じゃあな」

 驚くほどあっさりと、解放された。
 去っていく月森の背中を見つめる。体中の熱が引いていく。それは、彼の目が、ひどく冷めていたからか。
 だが、彼の手が触れていた箇所の熱だけは、どうやっても引かなかった。
 は、自分の唇に手の甲を当て、そのままずるずると崩れ落ちた。

「……馬鹿はどっちよ」

 涙がこぼれた。
 彼のぞんざいな言葉とは裏腹に、そのキスは優しかったから。




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