「見損なったよ」


 彼は、しばらくその場から動かなかった。
 握り締められた紙幣が、ぐしゃりと音を立てる。風が吹き抜けた。

「……月森」

 ふらりと方向転換した彼に、慌てて声をかける。
 そんな顔をしている人間を放っておけるはずがない。彼が好きだから、いや違う。彼は、かけがえのない友人だから。

「待って」

 駆け寄って、袖を掴む。
 自分を見下ろした彼の目は、もう焦点が定まっていなかった。乾ききったその瞳に、いつものような光はなく。
 掠れた声が、頭の中に響いた。

「――お前」
「……」
「まだ懲りねえの?」

 視界がぐるりと動いた。力に抗いきれず、足を動かす。
 胸倉をつかまれ、壁に押し付けられた。

「今度は、あれだけじゃ済まねえぞ」

 無表情で発せられた脅しの言葉。
 逃げ場はない。そんなものは、最初からない。かかとが僅かに浮いて、息苦しさもあったが、目は逸らさなかった。
 胸の奥から声を絞り出す。

「――できないくせに」

 カッとしたのか、胸倉を掴む手に力が入った。
 できるはずがない。
 これほど傷ついた目をした人間に、人を傷つけるだけの度胸があるものか。それに、自分の考えは変わらない。彼は、もう二度と自分を傷つけたりはしない。
 絶対に目を閉じてやらないし、逸らしてもやらない。抵抗もしない。
 触れるギリギリのところまで、は目を見開いたままだった。

「……」
「……ほらね、できない」

 睨み付けるような上目遣い。一瞬だけ、視線が交わった。
 乾いていたはずの瞳が、かすかに潤んだ。

「……

 睫毛が涙に濡れる。

「――助けて」

 助けを求める、掠れた声。
 それを聞いた瞬間、自分の目からも涙が溢れ出した。背中に腕を回して、宥めるように撫でた。
 きっと立っているだけでも限界だった。
 月森は、崩れ落ちるようにに体を預けると、すがりつくように抱きしめた。

「馬鹿、最初から、そう言えば良かったのに」
「……っ」

 涙が地面にしみを作る。

「ねえ、もう二度と、私を失望させないで」

 しばらく、嗚咽を聞きながら支えていた。
 この間のような過ちは、犯さない。何も聞かずに、勝手に失望して、遠ざけることなど、許されないから。

「……
「ん?」
「話、聞いてくれる?」

 ようやく体を離した月森が、涙を拭ってそう言った。まるでそうすれば涙が止まるかのように、天を仰いで息を吐き出している。
 もちろん、そのつもりでここに来た。
 頷いて、月森の手に触れる。その手も、傷だらけだった。

「うん、もちろんだよ」
「……ありがと」

 微かに笑った彼は、そのまま歩き始めた。

「どこ行くの?」
「ん、何か落ち着けるとこ。授業始まってっし、誰かに見つかると面倒じゃね?」
「あ、そっか……うん」

 触れた手が少しだけ震えていたように思えて、は目を伏せた。話を聴くことは簡単だが、そこから自分に何ができるだろうか。
 足元に落ちていた、ぐしゃぐしゃの紙幣を拾い上げる。きっと、これを日暮里に渡した月森こそが、自分の過ちに気づいていた。それでも抑え切れない何かが彼にはあったのだ。

さ、前に言ったじゃん。航が新体操始めたから、寂しいんじゃねえのって」
「ん、言った」
「あれさ、大当たり。や、寂しいっつーか、悔しいっつーか……航が一緒に遊ばなくなったのが寂しかったし、あいつだけ変わってくのが悔しかったっつーか、単純にむかついてたっつーか?」

 体育館横の階段に座る。一時間目から体育の授業を行うクラスはないらしく、体育館周辺はシンと静まり返っていた。

「あいつだって、最初は新体操のことダセェとか言ってたんだし。何で今更ハマッてんだよ、とか思って」
「月森は、本当に東くんが好きなんだね。一緒じゃないと気が済まないんだ」
「……ま、ずっと一緒にいたからな」

 照れたように笑って、彼は学ランを脱いだ。どうするのかと思えば、それをの膝の上にかけてくれた。
 その手の上に、自分の手を重ねる。喧嘩でできたのだろう、すりむいた箇所が多く、痛々しかった。

「月森は、どうして私が新体操部に入部しないか、わかる?」
「ん? 勉強が忙しいからじゃねえの?」
「本当にそうだったら、練習を見に行ったりする暇もないよ」
「あ、そっか」

 月森が首を傾げる。
 そろそろ素直になるべきだ。手を見つめていた目を上げて、月森を見る。

「私まで新体操部に入っちゃったら、月森が寂しがるかなと思ったからだよ」
「……」
「東くんの代わりにはなれないけど、寂しさを紛らすことはできるかなと思って」
「何だよ、それ」

 泣きそうな顔をした彼は、我慢できないとでも言うように、を抱き寄せた。本当に寂しかったのだろう。つらいときに、どんどん信頼できる人間が減っていって、誰よりも信頼していた友人を失って。

「私は、月森の味方でいたかったから」

 肩にかかる手の力が強まった。顔は見えなかったが、また涙が出てきたのだろう。ぽたりと膝の上に水滴が落ちてきた。

「……なんで、お前、俺のこと嫌いだったくせに」
「今は違うよ。月森って、厄介な奴だし、たまにむかつくし、ちょっと怖いところもあるし、人目も気にしないし、勝手にキスとかするし、ほんと私にはわけわかんない人間だけどさ。でも、良いとこもあるじゃん。月森は、優しいよ」
「言いすぎ。俺の良いとこ、そんだけかよ」

 声が涙で滲んでいた。

「これからも、味方?」
「月森が望むなら」
「じゃ、真剣にお願いします」

 肩を叩く。体を離してみれば、彼は泣き顔のまま、笑っていた。

「俺、あのグループ抜けてくるわ」
「うん」
「で、片付いたら、航に謝る。日暮里にも。にも」
「私には、別に良いでしょ」

 人差し指で月森の涙を拭う。彼には泣き顔よりも、笑顔が似合う。
 愛想笑いでもなく、作り笑いでもなく、自分に向けてくれるあの笑顔がほしい。全てが片付いたとき、もう一度見せてくれるだろうか。

「いや、むしろお前に一番謝らねえと。好きでもない男にキスされて、平気なわけねえだろ」
「あー……そっか。そういうことか、うん。でも、良いよ。忘れる」
「んー、じゃ、俺は忘れない。それで良い?」
「うん」

 好きだよ、とは伝えなかった。
 それより、と話を逸らす。

「大丈夫? バイク盗んだりするくらいだし、危ないんじゃ……」
「あー、まあ、な。でも俺が蒔いた種だし、しょうがねえじゃん」
「じゃあ、私もついていきたい」
「駄目」

 わかっていたことだが、あっさりと拒絶された。

「別に、乗り込もうとか考えてないよ。途中まで!」
「それでも、駄目。お前を危ない目に遭わせるわけにはいかねえだろ」
「む……わかった、けど。気をつけてね? 怪我しないでね?」
「いや、それは約束できねえよ」

 立ち上がった月森の背中に、学ランをかける。腕を通す彼を手伝いながら、目を伏せた。
 嫌な予感が、じわじわと背中を這い登ってきた。




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