「あ、木山くーん、おはよう……って、どうしたの、その傷!!」

 室内シューズに履き替えて廊下を歩いていると、後ろから木山がやってきて追い越していった。追いかけて声をかければ、振り返った彼の顔は傷だらけで。

「何でもねえよ」
「そっか。うん、何でもないはずがないけど、木山くんは聞いて欲しくないみたいだから、聞かないね」
「そうしてくれ」

 それにしても痛々しい。目の周りが腫れていて、紫に変色していた。
 それでも、木山は冷静そうだった。悠々と歩いて、階段を上っていく。何となく隣に並んで、教室へ向かう。彼は嫌そうな顔をしなかったので、そのまま歩いた。
 しかし、どうして木山が傷だらけなのか、それはすぐにわかった。
 教室の前で、東と赤羽が怒鳴りあっていたのだ。瞬く間に殴り合い、ののしりあいに発展した。
 木山が東に近づいていって、後ろから羽交い絞めにして赤羽から遠ざけた。



「このクラス、柄悪すぎ」
「暴力とか、勘弁して欲しいよね」
「いくら部活をやってても、やっぱり不良は不良よね」

 英和辞典のページを捲りながら、は教室中から聞こえてくる陰口が聞こえていない振りに徹していた。だが、単語の意味など全く頭に入ってこない。さっきから、同じ単語を見ては、同じ場所に蛍光ペンで線を引いていた。
 聞こえない振りをしているのは、だけではない。月森もまた、聞こえているくせに、何も言わずに携帯をいじっている。
 Attemptという単語を3回見つけ出したとき、は自分が動揺しているということにやっと気づいた。
 蛍光ペンのキャップをしめて、ペンケースの中に戻す。到底勉強する気になどなれなかった。

「よう、暴れん坊。たっぷり説教食らったらしいな」
「おう」

 東が戻ってきて、悪びれることなく席に着いた。
 反省している東というのも、気持ち悪い。あの態度は、彼らしいといえば、彼らしかった。それに、彼は木山のために怒ったのだから、悪いことをしたという意識はないのかもしれない。
 ちらりと木山を見ると、彼は無表情だった。

「しっかし、先公っつーのは、どうして話がなげぇんだろうな」
「そ、それで、ふれあい祭りのほうは……!」
「ああ、心配すんな。そっちは柏木が教頭に話つけてるからよ。ま、学校の中でちょっと暴れたくらい、大したことな」
「そういう問題じゃないだろ!」

 悠太が音を立てて立ち上がった。
 無理もない。は冷めた目で東を見つめていたが、すぐに目を逸らしてため息を落とした。

「今回は大丈夫だったかもしれないけど、どうせまた同じようなこと繰り返すんだろ」
「何だよおっかねえ顔して」
「日暮里は練習サボって街でフラフラ遊んでるし、お前はちょっとしたことですぐ暴力ふるうし、やってること最低じゃないか!」
「おいおい、ちょっとしたことじゃねえぞ、赤羽がな、せけぇ真似しやがったから」
「どうだっていいよ、そんなこと!」

 どうやら、悠太は怒りで頭がうまく働いていないらしい。
 このままでは、彼は言ってはいけないことまで言ってしまうだろう。仕方がないことだが、だからといって、黙って見過ごすわけにもいかない。立ち上がるべきかどうか迷って、はとりあえず静観を決め込んだ。

「これ以上、新体操部に迷惑かけないでくれ」
「何だと……? 黙って聞いてりゃ偉そうにしやがってよ!! お前は日暮里の何を知ってんだよ! 俺たちの何を知ってんだよ!」
「お前たちの世界のことなんて、理解できないし、したくもない!!」

 言ってしまった。
 理解できない。したくもない。そう、少し前の自分たちなら、それでよかったはずだ。だが、今は違う。は新体操部の部員ではないが、それでも東や月森たちとは、それなりの付き合いをしているつもりだ。
 悪いところが目立つが、良いところもある。
 それを知ることができたのは、お互いのことを理解しようと、少しずつ歩み寄ったおかげだ。

「上等だ……やめてやるよ」
「ま、そういうことだから」

 これで良いはずがないだろうに。それがわからない程度の付き合いだったはずがない。
 このまま背を向けてしまっては、一生分かり合えない。
 立ち上がって、教室を出て行こうとする東と月森の行く手を遮った。

「悪いけど、そういうことだから。聞いてただろ?」
「……本当に、それで良いの?」

 眉間に皺を寄せた東が、無言のままを見下ろす。

「本当に、ここでやめたいんなら、やめれば良い」

 驚くほど低い声が出た。
 立ち尽くしている悠太たちに、視線を移す。

「本当に、こいつらがやめてもいいって思ってんなら、引き止めなくても良いよ」

 悠太の気持ちもわかる。
 部活をやっている立場として、軽々しく暴力を振るうべきではない。夢のために耐え続けていた悠太だからこそ、怒るのも無理はないのだ。
 だが、一度はわかりあった仲間なのに、本当にこのまま見送っていいわけがない。

「東くんは、わかってもらえるはずがないって思ってるんでしょ。だったら悠太くんが理解できないのも仕方ないよ。でもね、悠太くん。悠太くんが理解したくもないって思ってるから、東くんのことをわかってあげられないんだよ」

 彼らは、最初から諦めてしまっている。
 同じ夢を追おうとしているくせに、自分たちの立場は絶対に交わらないものだ、と諦めてしまっているのだ。それでは、不良と新体操部を笑っている周りの人間と、何も変わらない。

「本当に、あんたらはそれで良いの? やめてもいいの? 引き止めなくてもいいの? どっちも、拗ねてるようにしか見えないんだけど」

 全員が目を見開いた。
 だが、のつたない説教は、どうやら通じなかったようだ。
 東は、眉間に皺を寄せたまま、無言で教室を出て行った。月森が、一瞬だけ躊躇った後、の肩を叩いて、東を追いかけていく。

「私は、やめてほしくないからね!」

 何も答えてくれなかった。
 静まり返った教室に、誰かの、やっぱり不良に話は通じないんだよ、という呟きが落とされた。




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