勉強する気にもなれず、新体操部の練習を見に行く気にもなれず、は放課後すぐに帰宅した。
 あれから月森は教室に戻ってこなかったし、水沢たちも話しかけてくれなかった。女子部のメンバーに慰められたが、彼女らは相変わらず東たちをよく思っていなかったようなので、息苦しかった。
 気づけば外は真っ暗で、ずいぶんと長い間、ぼんやりとしていたのだと気づく。
 階下から、夕飯の香りが漂ってきている。これほど悩んでいるはずなのに、空腹を覚えている自分が、おかしかった。
 楽天的なのかもしれない。彼らなら、また元に戻れると心のどこかで信じている。

、ご飯よ」

 母の呼ぶ声に答えて、そのままだった制服から着替えて、部屋を出る。
 階段を下りて食卓につくと、少し遅れてサツキも下りてきた。
 父は晩酌のビールを注ぐのに夢中で、母は全員分のスープをどれだけ公平に分けることができるかに全力を注いでいた。

「姉ちゃん、もう帰ってたんだ」
「は?」

 隣に座ったサツキに話しかけられ、は湯気からサツキへと視線を移した。

「俺はてっきり、今日も新体操部の練習に付き合ってんのかと思ったよ」

 サツキの言葉に反応して、父が顔を上げた。
 ゾクリと寒気が走った。サツキが何をしたいのか、はっきりと読み取ってしまったから。

「何言ってるの、サツキ。お姉ちゃんは毎日学校で勉強して」
「嘘だろ」

 母の言葉を、サツキは冷たく遮った。
 父が無言で自分を見つめている。はその視線に耐え切れず、俯いた。

、お前、部活なんてやってたのか」
「……やってない」
「じゃあ、サツキが言ってるのはどういうことだ?」

 持っていた箸を置く。

「手伝ってただけだよ。拓が、新体操やってるから」
「お前はもう三年なんだぞ、わかってるのか」
「わかってるよ。大丈夫、もう志望校を変えるつもりもないし、今度は、頑張るから」

 空気が重い。慣れていると思っていた。もう2年間も、この空気の中で耐え続けてきたのだから、今更何を言われようと、どれだけ期待されようと、耐えることができると思っていた。

「それに、最近は行ってない。ちゃんと勉強してた」
「そうか。なら良い。でもな、

 視界の端で、サツキが口元を吊り上げたのが、はっきりと見えた。
 それほど、憎まれているのか。少しでも好きなことをやろうとすれば、全て妨害されてきた。

「水沢くんには悪いが、そんなものより、お前の将来のほうが大事なんだ」

 頭が真っ白になった。
 今、確かに父は、そんなもの、と言った。胸の中から何かが溢れ出してくる。父の並べ立てる小言が、全て耳に入ってこなくなった。

「聞いてるのか、
「……お父さんには」
「は?」

 立ち上がる。母が目の前に置いたスープが、大きく揺れて、少しこぼれた。

「お父さんには、わかんないよ。あいつらが、どれだけ真面目にやってるかとか、わからないくせに、そんなものとか、言わないで」

 両親だけではない。サツキまで、目を丸くしてを見つめていた。
 今まで、反抗らしい反抗など、したことがなかった。あの日、両親の期待を裏切ってしまった日から、弟の気持ちを傷つけてしまったと気づいた日から、極力自分を押し殺すようにしていたから。
 自分はこれで良いのだ、と思っていた。そうすれば、家族はいつか平穏を取り戻す、と思っていた。
 だが、今になって初めて、それがつらいと思った。
 自分のやりたいことを、ようやく見つけたのに、その気持ちを押し殺して生きるのが、つらい。何かに夢中になっている人を見た。手を差し伸べてくれる人がいる。それなのに、それが見えていない振りをするのは、つらかった。

「真面目にやってても、結果は出していないんだろう。大体、新体操なんか、女子のものだろう。女子新体操部を手伝うならともかく、ろくに結果も出していない男子新体操部の手伝いなんかして、何になるんだ?」
「何になるって……あいつらは、団体のために一生懸命やってるのに、そういうこと言わないでよ! あいつらの夢を、馬鹿にしないでよ!」
「夢が何だ! そんなものがあっても、結果に繋がらなければ、何の意味もないと言ってるんだ!」

 母とサツキが、呆然として二人のやり取りを聞いていた。
 父に怒鳴られたのは、久しぶりだ。これまで機嫌を損ねないように、徐々に洗脳しようとしているようにも見えていた父が、久々に怒鳴った。

「お父さんは、いつもそうじゃん!! 結果ばっか求めて、私らが何考えてるかとか、どんだけ頑張ってたかとか、全然見てくれなかった! それで、サツキがどれだけ傷ついたか、わかってんの!?」

 涙が出てきた。
 今までずっと溜め込んでいたものが、出てくる。だが、どれだけ吐き出しても、それは消えなかった。

「何も知らないくせに、偉そうなこと、言わないでよ……」

 怒りが頂点に達したらしい父が、立ち上がって睨みつけてくる。殴られてもいい。譲れないものがあるということを、知って欲しかった。

、どこに行くの? ご飯は」
「姉ちゃん――」

 部屋に戻って、放り出していたスクールバッグを掴む。
 今は、この家の中にいたくなかった。もう限界だったのだ。少し自分を休ませなければ、また以前のように倒れてしまう。
 は、家を飛び出した。
 フラフラと歩く。いつもなら、迷わず水沢を頼るはずだ。だが、今日はその気にもなれなかった。
 他の友人を頼ろうにも、いきなり訪ねていけば迷惑になる。そう思うと、やはり泊めてくれとは言いづらい。しばらく頭を冷やしたら、気づかれないように帰るべきか。だが、今はあの家の中で、何食わぬ顔をして生きていく自信がなかった。
 父はきっと自分に失望したし、サツキは居場所をなくした姉を笑っているだろう。

「亮介……は、駄目だな。気まずい、っつーかあいつは危険だ。新体操部は全部駄目だ。いっそ火野くんちに行ったほうがまだマシだけど、火野くんのアドレスなんか知らないし」

 傷ついている自分を誤魔化そうとしているのか、無意識のうちに言葉が滑り出てくる。だが、それもしばらくすると空しくなって、はついに海を前にして立ち止まった。遠くに見える漁船の光が、にじむ。
 突然、後ろから肩を叩かれた。

「――っ!?」
「あ、驚かせた? 悪いね。ところで君、一人で何やってんの? ちょっと俺らの話聞いてくれない?」

 まさか海の前でナンパしてくる男がいるとは思わなかった。いや、大人数で一人をナンパするとは思えないから、これはどちらかというと、絡まれているのかもしれない。
 頭がついていかずに、首を傾げる。

「俺らさ、金持ってねえの。困ってんだけど、助けてくれない? おねーさん」
「……財布の中、1000円しか入ってないから」

 何とか彼らから逃れようと試みたが、すぐに腕をつかまれて止められてしまった。スクールバッグが奪われて、躊躇いもなく、中身をつかみ出された。

「ちょっ……!」
「あった、財布。悪いねー、ちょっと借りるわ」
「やめてよ!!」
「うっせぇな、金だけで済んでありがたいと思えよ!」

 突き飛ばされて、傍の自転車に突っ込んで転んだ。膝を強打した挙句、自転車にぶつかったせいで顔を打ち付けた。

「あーあ。ごめんね?」
「返して……財布、返して」

 返してと頼んで返してくれるような人間なら、苦労はしない。そうわかっていても、抵抗する術を持たないには、頼むことしかできなかった。

「じゃあ、俺らと遊んでくれたら、返してあげる。なあ?」
「や……!! 触らないで!」

 逃げ場のない状況で男に囲まれれば、よからぬ想像をしてしまうのは当然。は自分の腕を掴んだ男から逃れようと、必死に手を振り払おうとする。だが、その抵抗は男たちを煽るだけだったようで。
 言いようのない恐怖心に襲われ、は叫んだ。

「助けて……!」

 助けて欲しい、守って欲しい。

「助けて、亮介……!!」

 それはきっと、必然だった。本当はずっと、彼にそう言いたかったのだ。家族のことも、自分の気持ちも全て話してしまいたかった。そうすれば、彼は助けてくれるのではないか、と期待していた。
 だからこそ、無意識のうちに、口をついて出てきたのだ。

「亮介って?」
「男だろ」

 男たちが、せせら笑う。だが、その瞬間。
 その中の一人が、突然前のめりに倒れた。

「!?」
「何だ、てめえ!」
「おい、こいつ……!」

 目を疑った。
 一人を後ろから蹴り飛ばして、見事に着地を決めたのは、

「こいつ、カラ高の、東にくっついてる……!」

 日暮里だったのだ。

「姐さんに手ぇ出すんじゃねえ!!」
「じゃあ、こいつ、もしかして、東の女かよ!」
「やっべぇぞ、逃げろ!」

 見当違いの言葉を残して、男たちは財布を放り出し、いっせいに逃げ出した。息を切らしている日暮里が、それを拾い上げて、に差し出した。

「大丈夫っすか、姐さん」

 助け起こしてくれるその手は、暖かく。
 は、照れたように笑う日暮里を見て、涙をこぼした。




TOP NEXT