ボロボロと涙をこぼすに、日暮里は大いに焦った。

「姐さん、大丈夫っすか?」
「……ん、ありがとう、助けてくれて」

 どうして彼女がここにいるのか、どうして絡まれていたのか、それを聞ける雰囲気ではない。ただ一つわかるのは、彼女がひどく傷ついているということだ。

「とりあえず、手当てしましょ。家に妹がいるんで」
「……日暮里くんち?」
「はい」
「迷惑、かけるわけにはいかないから、いいよ」

 そういうわけにはいかない。
 このまま一人で帰すわけにもいかないし、大体そんな傷だらけの状態で帰れば、家の人が驚くだろう。

「だーいじょうぶっすよ! っつーか、うち汚いんで、逆に姐さんには迷惑かもしれないんすけどね!」

 は、それを冗談だと思ったのだろう。妹がきちんと掃除しているので、汚いわけではない。ただ、いかんせん、狭くて古い。住んでいると全く気にならないが、初めて誰かを招くときは、いつも気を遣ってしまう。

「……姐さん、何かあったんすか?」
「あ、いや、ちょっと……家出してきたんだよね」
「姐さんでも家出するんすか!?」
「うん。お父さんと喧嘩して」

 喧嘩などしない人だと、勝手に思っていた。家族とも友達ともうまくやっているような。
 ただ、よく考えると亮介とはいつも言い争っている――というより、あれはお互いにじゃれあっているだけなのかもしれない――ので、温厚だというイメージは、あまりなかった。初めて言葉を交わした日に、彼女が亮介をののしっていたせいもあるだろう。

「じゃ、今からどうするんすか?」
「うん、拓んちに行こうと思ってたんだけど、ちょっと気まずくて……友達んちも、迷惑になると思ってね、困ってたところ。そしたら、絡まれた」
「帰ったほうがいいんじゃないんですか?」
「……帰りたくないから、家出したんだけど」

 もっともだ。
 ここで拾ったのも何かの縁かもしれない。日暮里は家のドアを開けながら、そう思った。

「雛子、まだ起きてっか?」
「あれ、兄ちゃん。どしたの?」
「救急箱出して」

 雛子はまだ起きていた。どうやら課題を片付けていたらしい。

「また喧嘩したの? もう、兄ちゃんは……って、あれ?」
「お、お邪魔します、こんばんは」
「え、え? 兄ちゃん、まさか、かの、じょ」
「ちげーよ! 姐さんは、亮介さんの彼女!」

 雛子は、なあんだ、とだけ言うと、に笑いかけた。もまた、やわらかく笑う。

「あ、もしかして、最近兄ちゃんがよく喋ってる、姐さんって……あ、どうぞ、座ってください。今手当てしますね」
「姐さん、腹減ってないっすか? うち、何もないっすけど、俺、何か買ってきます!」
「あ、良いよ、気にしないで?」

 こうしてみると、本当に普通の人だ。どうして亮介が目をつけて、そしてあれほど入れ込んでいるのかがわからなくなるほど。ただ、たった一人だけ、亮介を見捨てなかったのは、この人だ。

「姐さん、もし良かったら、うちに泊まってって良いっすよ。狭いとこっすけど」
「え、兄ちゃん?」
「姐さん、家出中なんだよ。困ったときはお互い様だ! どうせ俺、夜中まで帰ってこねえし、父ちゃんの布団も空いてんだろ?」

 雛子に、頼むな、と伝えると、頷いてくれた。
 のことは、よく話す。航や亮介のことを話すのと同じくらい、当然のこととして話題に出すのだ。だからか、雛子も驚きはしたものの、あまり抵抗はなかったようだ。

「日暮里くん、助けてくれて、ほんとにありがとね」
「や、気にしないでください。姐さんが、亮介さんの名前呼ばなかったら、気づかなかったし。やー、やっぱ亮介さんのこと、すっげ好きなんですね」
「えっ、や、そんなんじゃ」

 頬に絆創膏を貼った彼女は、いつもの彼女とは違う人に見えた。似合わない。彼女は、どちらかというと、自分たちよりも、悠太たちと一緒に笑い合っているほうが似合っている人だ。
 だからだろう。さっきから、罪悪感で胸が痛む。彼女のことだ、亮介たちから聞いて、事情を知っているだろう。それでも、普段と変わらず笑いかけてくれる。

「……日暮里くん」
「――はい」
「皆、待ってるからね」

 もしかすると、自分はこの言葉を待っていたのかもしれない。
 振り返らずに、家を出た。涙が一粒だけ、手の甲に落ちた。


「えーっと、さんって、呼んでもいいですか?」
「あ、うん。えっと、雛子ちゃん?」
「はい!」

 日暮里が出て行った後、僅かな沈黙があった。
 やはり迷惑だろう。いくら兄の命令であっても、家に見知らぬ人と二人取り残されるのは、息苦しいに違いない。

「日暮里くんはああ言ってたけど、やっぱり私、帰るよ」
「いえ、大丈夫ですよ! 家出中なんですよね? それに、もう遅いし、危ないですよ」
「……うん」
「それに私、嬉しいんです。さっき、さんが兄ちゃんに、皆待ってるって言ってくれたこと。兄ちゃん、本当は新体操がやりたいはずだから」

 深く考えずに発した言葉だった。ただ、恐らく全員、本心では日暮里を信じたいのだと思う。だからこそ、東も悠太に対して憤りを覚えた。悠太も、好きで疑ったわけではないだろう。日暮里が真剣に練習していたことは、知っているはずだから。

「もし、迷惑じゃなかったら、話してくれない? 日暮里くん、どうして練習休んでるの? もうやる気なくなった、みたいなこと言ってたみたいだけど、私は嘘だと思ってて。東くんたちも、信じてないと思うんだ、本当は」

 雛子は、しばらく黙り込んでいた。
 言えなかったら、無理しなくてもいい。そう言おうと口を開くとほぼ同時に、雛子もまた口を開いた。その目には、涙が浮かんでいて。
 そして、彼女の口から話された事実に、今度はが黙り込んだ。
 父親の代わりに、家を支えていたのだ、彼は。

「……兄ちゃん、本当は皆さんと新体操がやりたいんです」

 最後に、雛子はそう言って話を締めくくった。

「……黙っとくの、つらかったでしょ」
「ううん、私より、兄ちゃんのほうがつらかったはずだから……」
「そうだよね。日暮里くんにとって、東くんと亮介は、大事な友達だもんね。つらかっただろうな」

 泣き出してしまった雛子の頭を撫でる。
 この暖かい家族を見ることで、自分の荒んでいた心が洗われていくのを、はまじまじと感じていた。羨ましい、と素直にそう思う。

「本当ですか……?」
「え?」
「さっきの、皆待ってるって奴、本当ですか?」

 本当は、彼らの口からは聞いていない。
 だが、今はこの健気な妹のために、頷いてやりたかった。





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