「雛子ちゃん! ごめんね、遅くなって」

 昨夜は本当に日暮里の家に泊めてもらった。早朝に起床し、朝食を作る雛子の手伝いをした後、朝から大騒ぎする日暮里の弟たちの相手をして、帰宅した。朝から考えられないほどの体力を使ってしまったが、気分は清清しかった。
 だが、家でシャワーを浴びたは、着替えて再び外出した。
 家の空気が重苦しかったから、ではない。いや、確かにそれも理由の一つではあったが、雛子と約束したのだ。工場で働いている日暮里の様子を見に行かせて欲しいと頼んだら、雛子は戸惑いつつも頷いてくれた。

「いきなり行って、迷惑じゃないかな?」
「いえ、そんなことないですよ!」

 雛子は自分の持つ弁当を見下ろして、微笑む。

「兄ちゃん、長男だからって、無理してると思うんです」
「ん?」
「本当はもっと、航さんたちと遊びたいだろうし、部活に時間もとりたいだろうし……。でも、私も来年から高校生になるから、無理しなきゃ立ち行かなくて」

 家族思いの兄を誇らしく思う反面、自分がまだ子供であることが、彼女にとっては心苦しいのだろう。雛子の微笑みは、すぐに消え去った。
 この家族思いの少女が、には羨ましくて仕方がない。
 独りよがりでもなく、我慢しているわけでもなく、ただひたすら純粋な気持ちで家族を思い続ける彼女は、自分とは正反対だと思った。彼女の優しさは、きっと家族を救っている。だが、自分の従順さは、きっと家族を歪めていた。

「でも、航さんたちといるときの兄ちゃん、すごく生き生きしてて。私たち、そんな兄ちゃんが好きだから、兄ちゃんと仲良くしてくれる航さんたちが大好きなんです」

 確かに、日暮里は、東たちといるときが一番生き生きしているような気がした。昨日、雛子に見せた表情はまさしく兄としてのものだったが、東たちに見せている表情は、どちらかというと、

「兄ちゃん、いつも無理してる分、航さんたちには甘えたいのかなって」

 そう、弟のような。
 東を兄貴と呼ぶ彼の横顔を思い出して、は笑った。

「私さ、日暮里くんって、弟みたいだなって思ってたの。こんな弟がいたらなって思って。でも、昨日雛子ちゃんと喋ってるの見て、お兄ちゃんだなって思った。いいお兄ちゃんなんでしょ?」
「はい。いっつも私たちのこと考えてくれてて、自慢の兄なんです」

 自分が雛子を羨ましく思う理由が、もう一つ見つかった。彼女は、何の屈託もなく兄に笑いかける。そして、自慢だ、と笑顔で言い切れる。
 自分を見て冷たい表情しか見せることのないサツキと重ねてしまっていたのだ、きっと。昔は、よく笑いかけてくれていた、あの弟と。

「兄ちゃん、さんのこと、本当のお姉さんみたいに慕ってると思います」
「え?」
「最初は、亮介さんの彼女だから姐さんって呼び始めたらしいんです。何か呼ばなきゃいけない気がした、とかも言ってましたけど……」
「ああ、あはは」

 初対面で、月森への不満をぶちまけたときの話だろう。日暮里はあのときのを見て、恐らく本気で怯えたに違いない。笑って誤魔化すと、雛子は首を傾げた後、話を続けた。

「兄ちゃん、よく言ってます。航さんたちも頼りになるけど、さんも違う意味で頼りになるって。すごく安心するみたいで、お姉ちゃんがいるならこんな感じかなって」
「そう、なんだ」

 照れた。こらえきれずに笑うと、雛子もまた嬉しそうに笑った。

「だから私、言ったんです。航さんたちが駄目なら、さんに相談してみればって。解決はしなくても、気持ちは楽になるんじゃないかなって思って。変ですよね、あのときの私、さんに会ったこともなかったのに。兄ちゃんが毎日話してくれるから、つい知ってる人みたいに思っちゃって」

 買いかぶりだ、と言えればどれだけ良かっただろう。だが、それに応えたいと思っている自分もいる。結局、滑り出たのは、こんな台詞。

「助けられるかは、わかんない。でもね、私……日暮里くんの味方だよ」
「――はい。さんなら、そう言ってくれるんじゃないかって思ってました」

 雛子の頭を撫でる。

「日暮里くんは、雛子ちゃんたちのために、頑張ってるよね。バイトが忙しいし、部活も頑張ってるのに、文句一つ言わないでしょ? 兄とか姉って、そういうもんなの。妹や弟のためなら、ちょっとの苦労は苦労じゃない。迷惑だなんて思わないし、どんなときでも、味方でいてあげたいと思う」

 少なくとも、自分はそうだ。
 弟の味方でいたかったから、同じ立場でいたかったから、あの選択をした。例えそれが同情だと受け取られようと、弟の負担になろうと、あのときの自分にとっては、あれが最善だったのだ。そう、思い込んでいた。

「だからね、日暮里くんが雛子ちゃんたちのために頑張ってるのと同じ。私も、日暮里くんの話を聴いてあげたいし、力になってあげたい。迷惑だとか、思うわけないの」
さん……」

 雛子の潤んだ目を見つめて、目を細める。

「だって私、日暮里くんの――ねえさん、だから」

 もしかすると自分は、日暮里や雛子の姉のように振舞うことで、自分を正当化しようとしているだけかもしれない。本当の家族がうまくいかないなら、せめてここで、と思っているのだろうか。
 ただ、それでも、自分は日暮里の味方でいたかった。姉とか弟か、そういうものではなく。仲間として。

「あ、そこが工場です」
「へえ、印刷所なんだ」
「はい。いつもは父ちゃんと兄ちゃんが頑張ってるんですけど、父ちゃんが倒れちゃったから……」

 心配そうに目を伏せた雛子が、工場の中を覗く。

「兄ちゃん、お弁当」
「おう、ありがとな」
さんが来てくれたよ。兄ちゃん、心配ばっかりかけるんだから」
「姐さん!」

 手をあげて笑いかけると、日暮里は戸惑ったように目を泳がせた。

「大丈夫だよ、誰にも話してないから。私も別に怒ってないし、事情も聞いちゃったし。まあ、心配はしたけどね」
「……すみません」

 俯いてしまった日暮里に近寄る。
 彼の周りには大量のポケットティッシュの入ったダンボール箱が置かれていた。なるほど、この数を一人で片付けるのは大変だろう。

「一人で悩む前に、この私に何でも相談しなさい」
「……でも、姐さん」

 まだ一人で抱え込もうとしているのだろう。だが、その目は潤んでいる。

「それができないんなら、今すぐ、ねえさんって呼び方、やめてよね」

 肩を叩くと、日暮里は顔を上げて、頷いた。

「はい、ねえさん!!」

 は満足げに頷いて、日暮里の隣に座る。

「じゃ、手伝うよ」
「え、いや、それは悪いっすよ」
「どうせ今日祝日で暇だし。最近日暮里くんと喋ってなかったからさあ」

 雛子は、家に弟を残しているから、と帰っていった。これから父親の見舞いに行くらしい。

「……私さ、弟がいるんだよね」
「え?」

 唐突な話題に、日暮里はついて来れなかったようだ。首をかしげている彼に笑いかけて、サツキのことを話す。
 どうしてか、話したくなったのだ。

「でもさ、すっげ嫌われてんの。私がちょっと楽しいことしたら、全部邪魔されるんだよ。前さ、好きな人にアドレス教えてもらって浮かれてたら、私がお風呂に行ってる間に、勝手にアドレス消されたことがあってさ。流石にあの時は殴ってやろうかと思ったけど」
「ねえさん、それって」
「私のせいなの。私が、サツキの気持ち、考えてなかったから」

 自嘲するしかない。
 今なら、間違いだったとはっきりとわかる。今までは、どこかで自分は間違っていなかったと思おうとしていた。だが、日暮里と雛子を見ていれば、理解せざるをえない。
 自分の優しさは、本当に独りよがりだった、と。

「そんなことないっす!!」
「!?」

 突然、日暮里が立ち上がった。

「ねえさんは、いつも俺たちの気持ち、考えてくれてるじゃないっすか! 亮介さんのときも、俺だって……」
「……ありがとう」

 目を丸くしたまま日暮里を見つめていたが、やがては、穏やかに微笑んだ。
 例え事情を知らない人からの言葉でも、それは何よりも価値のある言葉だった。





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