さて、平穏を取り戻したように見えた男子新体操部だったが、彼らにまた新たな事件が降りかかっていた。
「ひっど……」
「誰がこんなこと……」
体育館に、無残な姿になったマットが現れたのだ。
ついこの間、女子部の優勝賞金で買ってもらったばかりの真新しいマットが、カラフルに染められていた。赤いペンキなのか。触れると、まだ乾いていなかったのか、指が赤く染まった。
「たぶん、あんたの仲間だよ」
振り返る。そこには、険しい表情の葵が立っていた。
「仲間?」
「――赤羽。さっき体育館から出て行くところ、見た」
東が血相を変えて体育館を飛び出した。
慌てて全員がそれを追う。はそれを見送った後、葵を振り返った。
「ごめんね、せっかくもらったのに」
「ほんとよね。これだから不良は」
「でも、東くんはどう思ってるか知らないけど……私は、少なくとも、こんなことできる奴らを仲間だと思いたくないよ。たぶん、月森と日暮里くんもそうだと思う」
だから。はそう言葉を繋いで、笑う。
「さっきの仲間って言葉、取り消しといて」
絶対に許さない。赤羽に対する激しい怒りを押し殺して、は遅れて体育館を出た。
彼らの居場所は、すぐにわかった。よくも悪くも目立つのだ。
「良かった、問題は起こしてないみたいで」
「当たり前だろ! んなことしたら、大会出れなくなんだろーが!」
どうやら東も耐えたらしい。彼に笑いかけると、得意げな笑みが返ってきた。
「俺さ、もうお前らとはつるまねえから」
「つるまねえから」
月森と日暮里の、決別宣言。
忌々しげな表情でそれを聞いていた赤羽が、奥にいるに目を留めた。彼と真っ向から見詰め合ったのは、初めてかもしれない。同じ中学で三年間過ごして、同じ高校で二年間過ごして、三年目は隣の席でスタートしたというのに、今まで一度も言葉を交わしたことがない。
しばらく、無言で睨みあった。そうさせたのは、胸に渦巻く怒りだった。
そうして。
「――……?」
赤羽は、口元を吊り上げた。ゾクリと、戦慄が走った。
「、行くぞー」
「あ、うん」
「とりあえず、マット洗おうぜ」
「そうだね、それがいいよ」
赤羽の表情に気づいたのか、月森が無理やりを方向転換させた。肩に腕が回される。いつもなら押しのけるそれも、今回は甘んじて受け入れた。袖の下には、鳥肌の立った腕。まるでそれを見透かしたかのように、月森の手は暖かかった。
「あんま、赤羽に近寄るなよ」
「と言われても……席が隣だし」
「わかってんだろ。何されっかわかんねえぞ」
「……うん」
以前、月森が事件に巻き込まれたとき、彼は赤羽にはめられたのかもしれない、と言っていた。人を陥れるために、危ない真似をするような男なのだ。月森の件も、マットの件も、嫌がらせのレベルではない。本気で、潰そうとしているとしか思えなかった。
だから、そのためなら、あの男はにも手を出すかもしれない。
月森はそう言いたいのだ。
「ま、俺が守ってあげる」
「はいはい、どうも。頼りにしてますよ、亮介くん」
お互いに、口調は軽い。だが、その表情は至極真剣だった。
「いやー、これは骨が折れるねえ。私は既に飽きてきたんだけど」
「おい!」
「冗談だってば、怒らないでよ、わたるん」
いくらこすっても、ペンキは落ちなかった。石鹸って意外と万能じゃないんだな、などと思いながらこすり、は一息をつく。
「つーか航、わたるんには無反応なんだ」
「あ? あの女が馬鹿なこと言い出すのはいつものことだろ。ほっとけ」
「わたるんのスルーレベルが5上がった」
「……うん、航の言うとおりだな」
何のゲームの効果音か知らないが、レベルアップ音を口ずさんで、はひたすらマットをこする。月森と東が、呆れたように目を背け、彼らもまた作業に没頭した。
好きでふざけているわけではない。油断すると、不安が襲ってくるのだ。もしも赤羽に何かされたらどうしようと思うと、不安で仕方がなくなって、結局ふざけた独り言を口にして誤魔化す。
「石鹸、もっと持ってきましょうか」
「ああ、頼むよ」
いくら石鹸があっても無駄なような気がする。いくら洗剤を投入しても、一定のラインを超えると洗浄力は上がらないというのを、家庭科で習った。教科書で見た折れ線グラフを頭に浮かべながら、が疑問を呈そうとしたときだ。石鹸をとりに行こうとしていた土屋が足を止めた。
「おう、木山」
「木山くん」
険しい表情の木山がいた。
彼は無言でビニール袋に入った何かを放った。
「何だよ!」
「アホかお前ら。それ使え」
ビニール袋を取り払うと、現れたのはベンジン。なるほど、木山は物知りだ。
ベンジンを使うと、面白いほどに汚れが落ちた。予定よりも早く洗濯が終わり、全員でマットを立てかけた。
「木山くん、ありがとね。あとでお金返す」
「別にいらねえよ」
「駄目。これは新体操部のマットなの。ね? 今お金持ってないから、明日返す」
ベンジンまで買ってきてもらった上に、洗濯まで手伝わせたのだから。せめて、ベンジンの代金くらい払わなければ、申し訳ない。
詰め寄ると、木山はしぶしぶ頷いた。
去っていく彼を見ながら、は微笑んだ。
「木山先輩、本当は優しい人なんですね」
「ま、何考えてんのかは、わかんないけどね」
「そこが良いんだよ、木山くんは」
ベンジンの缶を踏み潰しながら、は言った。
「そこが良いって?」
「いっつもクールな一匹狼キャラなのに、困ってる人を見たらほっとけないでしょ? 冷静に周りを見てる感じもするし、大人だよね。ああいう男がもっと増えれば良いのに」
「……お前、やっぱり木山のこと……!」
「アホか、お前」
木山の口真似をして、じゃれ付いてくる月森を殴る。
それを見ていた全員が、声を上げて笑った。
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