次の日の放課後、は思い出した。木山にまだベンジンの代金を払っていなかった。
 部員たちに先へ行くように伝えて、教室に戻る。さっきまで木山も教室にいたので、何とか間に合えばいい。

「木山くん!」

 何とか間に合ったようだ。廊下を歩いていく後姿を発見して、は声をかけた。振り返った木山が、立ち止まる。

「ごめん、お金のこと忘れてて。はい、これ」
「わざわざ戻ってきたのか」
「いや、こういうのって後回しにしちゃいけないかなと思って」

 封筒に入った代金を渡すと、木山は中身も確認せずにそれをポケットに突っ込んだ。

「じゃ、昨日は本当にありがとね。マット、もうすっかり元通りだよ」
「良かったな」

 それ以上言うことはない。木山はそんな顔をした後、踵を返した。
 相変わらず、言葉数が少ない。苦笑して木山を見送り、もまた彼に背を向ける。だが、そのまま彼女は動きを止めた。一点を見つめて――いや、睨むような目のまま。

「よう、

 赤羽だ。口元を吊り上げた赤羽が、行く手を塞ぐかのように立っていたのだ。
 不穏な空気を感じ取ったのか、生徒たちが遠巻きにして二人を見つめた。月森の言葉が蘇る。赤羽に近づくな、という言葉。
 関わってもいいことなどない。そう判断して、無言のまま赤羽の隣を通り過ぎようとした。だが、それを許されるはずがなく。

「お前、いい加減どっちかに決めたらどうだよ」
「――は?」

 意味がわからない。眉間に皺が寄っているのが、自分でもはっきりとわかる。
 思わず赤羽を見上げる。

「亮介か、木山か」
「……ごめん、言ってる意味がわかんない」

 確かに自分は、それなりに木山と言葉を交わす仲だ。だが、それは到底恋愛感情に発展するようなものではない。赤羽の言葉は、何の根拠もない嫌がらせのようなものだ。
 だが、赤羽は引き下がらなかった。去ろうとするに、視線を集中させようとしているかのように、大声で言う。

「そうだよなあ? 亮介に本気になる意味がわかんねえよなあ?」
「はあ!?」
「亮介は遊びで、木山が本命なんだろ? まあ、亮介もお前に本気なわけないし、お互いに遊ぶ程度がちょうどいいのか」

 枯野に火が広がるかのように、生徒たちの間で噂話が広がっていく。興味本位でを見つめるもの、赤羽の言葉に同意しているもの、さまざまだ。
 怒りの炎が、胸の中に灯る。それは一気に燃え上がって、最終的に喉を焼いた。

「で? 亮介には、もうやらせたのかよ?」

 とどめを刺された。
 頭の中が真っ赤に染まって、体中がわなわなと震えた。そうして、気づいたときには、赤羽の胸倉を掴んで、必死に睨みつけていたのだ。これは立派な侮辱だ。自分に対しても、月森に対しても。

「……ふざけんなよ」
「おー、こわ。やっぱ、血は争えないって奴か。弟があれなら、姉もこれかよ」
「!!」

 赤羽は動じることもなく、更にを挑発した。
 彼が、サツキのことまで知っているとは思わなかった。

サツキ、出来の悪ぃ弟なんだろ? 優等生の姉からすれば」
「サツキは関係ない!!」

 何も知らないくせに。歯を食いしばって、は何とか赤羽を殴りたいという衝動を抑えた。だが、どうしても、彼のシャツを掴んだ手が、離れてくれない。殴らせろ、と体が叫んでいる。
 しかし、そのときだった。背後から肩をつかまれ、は突き飛ばされた。壁にぶつかり、何とか崩れ落ちるのを我慢して、振り返る。
 さっき帰ったはずの木山が、赤羽を殴っていた。
 生徒たちの悲鳴が上がる。は喧騒の中、呆然とそれを見つめていた。

「――はっ、木山、てめえ、やっぱりのこと」
「馬鹿か、お前」

 赤羽の挑発も、木山にとっては意味を成さなかった。
 無表情のまま、木山は赤羽を見下ろしていた。

「女一人にムキになって、だからお前は小物なんだよ」

 赤羽が、忌々しげに木山と、を見る。体の熱が、引いていく。
 去っていく赤羽を最後まで見届けることなく、木山はと向き合った。

「お前も、あんまり俺と関わるな。月森に誤解されたら困るんじゃねえのか」
「……っ、そんな」
「面倒だろ」

 ありがとう、とか、ごめんね、とか。
 言うべき言葉は山のようにあったはずだが、は何も言えずに木山とすれ違った。怯えたように自分を見る生徒たちの間を、フラフラと通り過ぎる。以前は、航や月森と歩いていると、勝手に生徒たちが避けてくれた。だが、今は一人だというのに、生徒たちは皆道を空けた。
 ひどく、傷ついていた。
 それでも、いつもの癖で無表情を取り繕う。何も知らない部員たちに心配をかけたくなかったし、どうして怒ったのかと聞かれて、正直に話せるわけがない。
 は、意識的に笑顔を作って、体育館に入った。

「……何やってんの?」
「いや、航たちがレギュラー争いで、醜い戦いを繰り広げてて」

 水沢と土屋に近寄ると、二人は呆れたように笑った。航と日暮里が何か言い争っていて、月森は悠太に何かを話している。

「はあ、もう」
?」

 手にしていたノートを丸めて、騒いでいる三人と悠太に近づく。

「まじ、めに、練習、しな、さい!」

 航、日暮里、月森、悠太の順番で、頭をはたいた。
 それとほぼ同時に、痺れを切らしたらしい葵が声を上げた。管理をしっかりしろと言われていたのに、申し訳ない。航と言い争い、月森を沈めた葵を内心賞賛しつつ、は彼女に近寄った。

「ごめんね、葵ちゃん」
「ちゃんと管理してよね」
「ほんとだよね、ごめん。ところで、聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「ん、何?」
「部費の申請のことなんだけど……」

 さすが葵だ。聞いたこと全てに、すらすらと答えてくれる。
 ただ、そうなるとまた他の疑問が出てくるわけで。葵も女子部の練習があるのだから、あまり引き止めては悪いと思いつつ、なかなか解放できなかった。

「あー……ごめん、引き止めちゃって」
「ううん、気にしなくていいけど。でも、他にもいろいろ教えたほうがいいかもね。良かったら、今日一緒に帰らない?」
「あ、今日? うん――」

 頷こうとしただったが、胸に空いた穴に気づいて、その動きを中途半端に止めた。

「ごめん、今日は無理だ」
「何かあるの?」
「いや、別に何もないっちゃないんだけど……今日は月森と一緒に帰りたいから」

 タンブリングの練習をしている彼を眺めながら、は目を細めた。
 赤羽のことを話すべきかどうか、それについてはまだ迷っている。だが、この傷をどうにかして欲しかった。
 自分が好きなのは、彼だけだから。
 何も知らない葵は笑っていたが、は結局、笑うことができなかった。




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