「あ、、おはよ」
「あ、おはよう! あ、そうだ、葵ちゃん、予算案が出来たんだけど、ちょっと見てもらってもいいかな?」
「うん、それは良いけど……、顔赤くない? 熱でもあるんじゃない?」
ぎくり、と肩を揺らして、は自分の頬を押さえる。月森のせいだ。あんな密室で、それも近距離で微笑まれたら、嫌でも照れてしまう。自分の笑顔がどれだけ女の子の心臓を活性化させるか、彼は一度知ったほうが良い。いや、もう知っていてのあの笑顔なのだろう。
「だ、大丈夫だよ!」
「ふーん? 怪しい」
「え、あ、怪しくないよ!?」
紀子と遥香にも顔を覗き込まれ、の体温はますます上がった。
「えー、何よ、気になる! 何かあったんでしょ!」
「月森?」
「えっ、やだ、そんなこと」
「顔に出てるー!」
高い声で笑って、彼女らはの肩を叩いた。
どうやら、彼女らは木山との噂を知らないのか、それとも信じていないかのどちらかのようだ。安心して、力が抜ける。いくら強がっても、せっかく出来た友達が離れていったらと思うと、不安だったのだ。
「私たちもね、いろいろ考えたんだけど。はほんとに月森のことが好きみたいだから、仕方ないし、応援してあげる」
「ほんとは月森に任せたくないけどねー」
「そうそう、って妙なところで世間知らずっぽいところあるし、見てて不安になるっていうか」
「もう、皆、そんな言い方したら、月森くんが可哀相だよ」
かろうじて茉莉がフォローを入れてくれたから良いものの、月森が聞いたら泣き出すかもしれない。彼は特に、女子新体操部からの評価が低いらしい。いやむしろ、他の女子からの評価は、それなりに良いのだ。それはつまり、火遊びをしたい女子はいくらでもいる、ということ。
そう、こういう風に。
「よく無神経に笑ってられるよねー? 自分がどう思われてんのか、わかってんのかな」
「っていうか意外だよね。おとなしそうな顔して二股でしょ?」
「最近東たちと仲良いから、調子乗ってんじゃない?」
「亮介が可哀相。後でメールしちゃおっと」
聞こえない振りが出来ないレベルの音量だった。耳を塞いでも聞こえてきそうな盛大な陰口が聞こえてくる。
こうやって、赤羽の嘘を信じて――いや、赤羽の嘘に乗じている人間もいるということだ。
「、気にしちゃ駄目だよ」
「ほんと、最低」
「無視するのが一番だよ」
女子は怖いな、と素直に思った。今まで目立つこともなかったから、陰口を叩かれるようなこともなく平凡に暮らしていたのに、本当に、月森と出会ってからいろいろなことが変わってしまった。
「ちゃん……」
「いや、気にしてないよ。茉莉ちゃんが悲しそうな顔することはないから」
そう言って笑ったものの、の心には確実に傷が増えていた。
他人に信じてもらえないということが、これほどつらいことだったとは。一人でもわかってくれる人がいれば良いと言ったが、やはりつらい。
睨むような視線、興味本位で注がれる視線、同情の視線。それら全ての間を通り抜けるには、鋼の心が必要そうだ。無意識にため息を吐き出して、は月森にこの陰口が届きませんように、と願った。
しかし、そんなの心配とは裏腹に、すぐに噂は沈静化した。更に大きな噂が、学校中を駆け巡ったからだ。
そう、それは木山が人を殺した、という噂だった。
「田舎は娯楽が少ないからねえ」
練習後、訪れた日暮里の家でペンを動かしながら、は軽い口調でそう言った。
「それが真実であれ嘘であれ、皆にはどうでも良いんだよ。面白ければ」
「お前の言い方、冷たい」
「いや、経験者だから、私」
だからこそ、冷静でないといけないのだ。ここで木山に同情しても、何にもならない。ただ噂は嘘だと信じるしかないだろう。
「ねえさん!」
「ん? 何かな、大和くん」
「絵本読んで!」
柔軟をしていた日暮里が、ものすごい勢いで体を起こし、弟の首根っこを掴んだ。
「すみません、ねえさん! こいつら、女の人見たら絵本読んでもらえるもんだって思ってて!」
「いや、良いよ。おいで、お姉さんが読んであげる」
可愛い弟たちだ。日暮里がねえさんと呼ぶものだから、真似をして同じように呼ぶ。雛子のことは、姉ちゃんと呼んでいるようだから、意味もあまり理解していないのかもしれない。
それに、今はただ違うことに没頭していたい。
どれだけ強がっても、ふとした瞬間に傷が浮上する。赤羽が怖い。他人の目が怖い。だから、自分を信じてくれている人たちの前だけでも、笑っていたい。その暖かさに浸っていたい。
絵本を読みながら、ふと顔を上げる。
月森が、頬杖をついたまま、見つめていた。
「ちゃん」
「うわ、何?」
日暮里の家を出て、しばらく歩いたときだった。それまで無言で携帯をいじっていた月森が、突然足を止めた。その呼び方に不審なものを覚えて首を傾げると、彼は予想外に無表情だった。
「手」
「手?」
まるで握手を求めるかのように、月森は手を差し出した。
「繋いで帰りませんか」
「えっ」
「嫌? 嫌なら別に良いんだけどな、でもほら、もう付き合って3週間目だし、ちょっとくらい良いんじゃねと思ったんだけど、嫌だよな、はい、良いです」
「……何一人で喋ってんの?」
勝手に話を終わらせてしまった。結局、どういうことだ。
「っつーか、言うけど! 俺、マジで我慢してっからな! 今朝だって、ほんとはキスくらいしたいと思ってたのに、お前逃げるし!」
「え、そうだったの!?」
「気づいてなかったの!?」
「うん、だって、何か照れちゃって。ああいうの慣れてないから……」
まったく気づいていなかった。ただ恥ずかしさで、逃げるのに精一杯になっていた。
確かに、思い返してみれば、そんな流れだったような気がする。
「でも、我慢してたんだ……てっきり私には興味がないのかと」
「いや、まさかだろ、それ」
「だって私とキスしなくても、間に合ってるでしょ?」
「間に合ってねえよ!? 何でそうなった!」
決まっている。他にいくらでも相手がいるからだ。
そう言ってやれば、月森は目に見えて落ち込んだ。
「あのなあ……俺が今どんだけ頑張ってるか……」
「何を?」
「今日一日中、断りっぱなし。お前が木山のこと好きだとか言う噂が広まったせいで、他の子たちに同情されてんの! 俺は! 私が慰めてあげるーとか言われたけど、全部断ってんのよ、俺。今はと一緒にいたいから」
誰とでもアドレスを交換するからだ。本来ならばそう言ってやりたいところだったが、彼の最後の言葉が嬉しかったので、そんな考えは消え去った。
「ありがと」
「いいえ。俺はに恋してるから」
「……それ、私のパクリじゃん」
もう一度差し出された手を、軽く握る。繋がった場所から熱が伝わってきて、まるでそれが月森の心情を表しているかのようで。
「でも、キスはもうちょっと待ってください。恥ずかしいから」
「いつまで?」
「県大会が終わるまで」
「そこを何とかもう一声」
初めて手を繋いでたどった道のりは、ずいぶんと長く思えた。
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