ある朝のことだ。廊下で談笑している生徒が多い中、木山が登校した。その顔には傷が出来ていて、彼の表情は暗かった。

「木山くん!?」

 茉莉が真っ先に気づいて、声を上げる。
 それで、生徒たちの視線は木山に集まった。航が血相を変えて木山を引っ張る。僅かに抵抗を見せた木山だったが、結局彼は航に引きずられていった。

「ねえねえ、今の見た?」
「やっぱあの噂本当なんじゃない?」

 葵たちが噂に興じるのを、は複雑な目で見ることしか出来なかった。このタイミングで顔に傷を作って出てこられたら、勘違いされてしまうのも仕方がない。ただ、それを好き勝手に騒ぎ立てるかは別として。

「やめろよ。憶測だけで変な噂広めんな」

 それまで木山と航を思いつめたような目で見送っていた水沢が、振り返って葵たちを睨みつけた。
 考えてみれば、水沢は今まで一言も木山のことに触れたことがない。いつでも黙って話を聞いているだけで、喋ることも、反応することもない。特に気に留めたこともなかったが、今日初めて彼が木山を庇ったことで、は驚いた。

「た」
「あ、さん。ちょうど良かった。すみませんが、職員室に来ていただけませんか?」
「えっ、あ、はい」

 水沢に声をかけようとしたのと同時に、突然柏木が現れて、を呼んだ。
 職員室に呼び出されるような悪事を働いた記憶はない。しいて言えば、最近赤羽のせいで妙な噂が広まっているということくらいだ。幸い、この噂は学年の枠を飛び越えることはほとんどなかったようで、一年のサツキの耳には届いていないらしかった。ということは、教師の耳にも届いていないという可能性も考えられるので、やはり用件は別物だろう。

「すみません、教室に持っていけばよかったんですが、説明することが多いので」

 書類の束を渡された。やはり、あの噂のことは、木山の噂のせいでかき消されたのだろう。いまだにしつこくからかったり、嫌味を言ったりする者もいたが、それはごく一部だった。

「これ、いつまでですか?」
「出来るだけ早くお願いします」
「わかりました」

 柏木は柏木で、授業の準備や部活の顧問の仕事に追われているようだった。少しでも手助けになれば良いと思って、職員室を出る。
 の仕事は、どちらかというと事務的なものが多かった。練習にはほとんど関わらない。たまに、柔軟の手助けをする程度だ。それと、練習中にふざけだす航たちを制御する役割。以前、茉莉に言ったことがあるが、マネージャーというよりも管理人と言ったほうがしっくり来るような気がする。

「あ、木山くん」

 角を曲がったところで、木山と鉢合わせした。
 思わず周囲を窺ったが、授業が始まりそうなこの時間帯に、廊下を歩いている生徒はほとんどいなかった。

「木山くん、怪我大丈夫?」
「……」

 あまり関わるなと言われたが、やはり怪我を見ると気になってしまう。
 だが、木山は一瞬の躊躇いを見せた後、無言での隣を通り過ぎた。その眉間には、深い皺が寄っている。

「木山くん! 私たちは、誰もあんな噂、信じてないから」

 だから、せめて自分たちにだけでも、心を開いて欲しい。
 力になりたい。木山は、いつでも影から自分たちを助けてくれていたから。その気持ちは、男子新体操部全員の共通の思いだ。
 だが、木山の背中は、頑なに拒絶していた。

「……もう俺に関わるな」
「――木山く」
「お前らには関係ねえだろ。迷惑だ」

 言葉が出なかった。
 喉の奥から掠れた声が出てきて、それは形を成さずに消えた。
 ただ、木山の背中を見送ることしか出来なかった。迷惑だ、と突き放されたはずだ。だが、木山のその背中はどこか寂しげで。
 わけがわからないまま、は泣いた。

「ねえ、最近ちょっと冷たくない?」
「そう? どの辺が?」
「メール返すの遅いしー。全然遊んでくれないし」
「あー、ごめんね? 俺も最近忙しくてさあ」

 涙を拭っていると、聞きなれた声が聞こえた。この、相手を懐柔するような喋り方と声色は、間違いない。
 どうして、こうもタイミングが悪いのだろう。

「忙しいって、あの子の相手が? 前から聞きたかったけど、あの子のどこが良いの?」
「どこって」
「正直、亮介と全然つりあってないし、何か木山くんとも噂になってるし。それより、亮介、今日は私と」
「――あのな」

 動くに動けず立ち往生している間に、聞きたくないことまで聞いてしまった。
 だが、喋り続ける彼女の言葉を、亮介の苛立ったような声が遮る。

「俺は、木山とのことを疑ったことはないの。それと、悪いけど、お前と付き合ってるつもりもねえから。メール返せとか、冷たいとか、言われる筋合いないんだよな」

 そんなことを言ったら、せっかく作り上げてきた仮面が台無しだろうに。あの手の女子の情報網は早いから、烏森では貴重な、一緒に遊んでくれる女の子たちに、揃ってそっぽを向かれてしまうかもしれない。

「何よ! 声かけてきたの、あんたのほうでしょ!」
「そうだっけ? わり、じゃあなかったことにしといて? 俺もアドレス消しとくから」
「はあ!? ちょっと」

 二人の表情は見えないが、月森が女の子相手にこんな喋り方をしているところを、初めて見た。いつでもニコニコとしていて、隙あらば仲良くなろうとしているのだと思っていた。

「後悔しても知らないから!」
「じゃあ聞くけど。俺が殺されそうになってるところに、心配して乗り込んで来れる? 何があっても、俺の味方でいてくれる?」
「は……?」
は、マジでそういうことやっちゃうから。だから、俺の彼女なの」

 たった一人のね。
 月森は、明るい口調でそう言って、笑ったようだった。
 いまだに、他の女の子には軽々しく声をかけるし、他にも遊び相手は山のようにいるし、二人でいるときでもお構いなしに他とメールをしているし、そんな彼だけれど。それでも、他のどんな可愛い女の子よりも、自分を大切にしてくれるから、好きだ。信じている。

「じゃ、俺は今ちゃんに会いたくて探してるとこだからー」
「ばっかじゃないの!? あんたなんかと、本気で付き合ってくれる子がいるわけないでしょ!」
「うわ、ひど」

 そんなことないのに、と一人呟いて、月森が角を曲がってきた。立ち尽くしていたは、とっさに壁に張り付く。

「……亮介」

 ようやく、掠れた声が出た。
 に気づいた月森が、目を丸くして駆け寄ってくる。

「いるよ、ちゃんと」
「ん?」
「亮介と本気で付き合ってる子、ここにいるから」

 つらいときに、心の底から会いたいと思う。傷ついた心を、彼になら癒してもらえると思う。
 月森は、の目に浮かんだ涙に気づいて、顔を覗き込んだ。

「どうした? さっきのがまずかった?」
「ううん、違う……。さっき、木山くんに」
「木山?」
「迷惑だから、もう関わるなって、言われた」

 月森の目が、にわかに殺気立った。木山が向かった場所もわからないのに、何も言わずに追いかけようとした彼の腕を、掴む。

「亮介」
「何でお前がそういうこと言われなきゃなんねーんだよ。どんな過去があっても、あいつにお前を泣かせる権利なんざねえだろうが!」
「良いから! 木山くんも、いろいろあるんだから!」

 その代わりに、必死に引きとめながら背後から抱きついた。

「今は、亮介がいれば良い」

 涙が溢れ出した。きっと木山の心の傷は、自分たちにはどうしようもできないほど深く、彼の心は、しっかりと閉ざされている。今は、それに向き合う勇気などなかった。
 だから、せめて、彼には傍にいて欲しい。助けて欲しい。
 慰めるように握られた手は、初めて手を繋いだ日のように、やはり熱かった。




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