大会参加のための選手登録書を書き上げるために教室に残っていただったが、選手のデータで埋まらないところがあったため、結局体育館へ向かった。
 正式な名簿を作ったほうが良いな、などと思いつつ、ぼんやりと体育館への道をたどる。
 木山に言われたことが、いまだに頭の中を回っていた。迷惑だと思われていたのか。純粋に、木山と少しずつ仲良くなっていけたのが嬉しかっただけだ。あの木山が、話しかけるたびに答えてくれるのが、嬉しかった。
 だが、いつの間にか調子に乗っていたのかもしれない。木山はもともと誰ともつるまない一匹狼だったのだから、仲良くなれていたと思った自分が、間違っていたのだろうか。
 それに、あんな噂を広められて、迷惑だと思わないほうがおかしい。
 何とか月森に宥められて平静を取り戻したが、やはり動揺は消えていなかった。

「土屋!」

 体育館のドアを開けると同時に、部員たちの切羽詰った声が聞こえた。
 一瞬、状況が理解できなかった。

「どうした――土屋くん!?」

 近寄ってみて初めて、状況を把握した。土屋が倒れている。ただうずくまっているだけなら良い。だが、どうやら彼には意識がないようで、ぴくりとも動かなかった。
 航が土屋を背負って立ち上がる。

「行くぞ、保健室!」
「えっ、ちょ、きゅうきゅう……ああ、もう!」

 体育館を飛び出していく部員たちは、どうやら冷静な判断力を失っているようだった。
 ただ、走っている間に、土屋が一瞬だけ意識を取り戻した。

「薬……」
「土屋くん!」
「くす、り……カバンの中に、飲んだら、治りま……す」

 途切れ途切れに発せられた言葉を、はっきりと聞き取ったのはだけだったらしい。確かに、薬と聞こえた。他の部員たちは、土屋を心配することで精一杯で、ただ走っているだけ。
 結局、は途中で道を外れて、部室へ向かって走った。

「薬があるってことは……ずっと隠してたんだ」

 あの様子では、簡単な病気ではないだろう。持病があるということを隠して、部活をしていたのか。
 団体に出るのが、土屋の夢だったから。
 同じ夢を見る人たちがいるから。病気があるからと、一人だけその夢を諦めるのも、つらかったのだろう。気持ちは、わかる。
 部室から土屋の荷物を抱えて、保健室へ向かった。

「土屋くん、薬! ――あれ?」

 保健室には、誰もいなかった。
 ベッドを覗けば土屋が寝ていたが、その他の部員は一人もいなかった。

「大丈夫……?」

 うっすらと目を開けた土屋が、心臓の辺りを押さえた。

「あ、薬! 土屋くん、薬、持って来たよ!」
「あ、りがと、ございます……」

 起き上がろうとする土屋を制して、薬を取り出して渡す。ゆっくりとした動きでそれを飲み込んだ土屋は、大きく息を吐きだした。

先輩……」
「喋っちゃ駄目だよ……。苦しいんでしょ?」
「大丈夫です、慣れてるので」

 潤んだ瞳が自分のほうへ向かってくる。胸が痛んだ。
 心臓の辺りにある手に触れると、彼はついに一粒涙をこぼした。

「僕……夢、諦めたくない、です」
「……ん」
「でも、も、無理で……僕、もう新体操、できなくて」

 何も答えられなかった。一番好きなものを、夢を、諦めなければならない気持ちは、わかる。だが、かける言葉は、一切なかった。
 ただ、土屋の涙を拭うだけ。

「置いてかれたく、ないです」
「ん……」
「僕、皆と一緒に……」

 声を上げて泣き始めた土屋を見下ろしたまま、は動きを止めていた。
 土屋は、ここで新体操をやめなければならなくなったということなのか。タンブリングをするのが、彼の夢だったのに。
 誰かが諦めている傍で、自分たちだけが進み続けるのは、気が引ける。

「土屋くん、ごめんね」
先輩が、謝ることじゃ……」
「ううん。ごめん、私には、何て言えば良いのかも、どうすれば良いのかも、わからないから」

 土屋の手を握っていると、その暖かさに涙が出てきた。
 やるせない。自分は、自分自身のつらさも、土屋のつらさも、解消できない。できることといえば、意味もなく手を握るだけ。

「ありがと、ございます……僕のために、泣いて」

 弱弱しく微笑んだ土屋の目じりから、涙が一筋零れ落ちた。
 それが限界だった。耐え切れなくなり、は保健室を出た。

「――さん」
「あ、悠太く……ごめん、私、ちょっと」

 保健室の外で、悠太たちと鉢合わせした。ボロボロと涙を零しているに、彼らはぎょっとしたようだが、土屋が中にいることを思い出したのだろう。神妙な面持ちで頷いて、中へ入っていった。
 壁に背中をつけたまま、顔を覆う。土屋の手の暖かさが、まだ残っていた。


ちゃーん」
「亮介……」

 着替えて女子部の部室を出ると、待っていたらしい月森が、ヘラリと笑って手を挙げていた。
 彼は彼なりに、心を痛めている。だが、それをあえて表に出していないだけだろう。何故なら、彼以上に、のほうが心を痛めているように見えるからだ。実際、心の痛みに軽重などないはずだが。

「喉、渇いてるんじゃない?」
「……ありがと」

 差し出されたお茶を受け取って、蓋を開ける。
 買ったばかりのお茶は冷たく、喉を潤し、頭を冷やしてくれた。今日は一日泣きっぱなしだったようなものだから、水分は本当にありがたかった。

、手ぇつなごっか」
「……ん」

 そして、今日は彼に甘えっぱなしだ。それだけ傷ついているということだから、月森もむやみに喜べなかったのだろう。口を開きかけて、そのまま無言で歩き続けた。

「私、土屋くんに何も出来なかった……」
「……うん、俺らも」
「悔しいよ、仲間が苦しんでるのに、何も出来ないんだから」

 皆、同じだ。月森は声に出さずに頷いて、握る手に力をこめた。
 無力感に苛まれるのは、だけではない。ずっと同じ夢を見ていた悠太の苦しみは、並々ではないに違いない。

さ、いろいろ抱え込みすぎじゃね?」
「え? そんなこと、ないよ」
「や、あるだろ。家のこととかもあんのに、毎回いろいろ抱え込んで。俺んときも、日暮里んときも、そりゃ俺らはマジで嬉しかったけど、でもな」

 心配するなとは言わないけど、と月森は何故か拗ねたように言った。思わず立ち止まって、彼の顔を見上げる。
 の視線を受けて、彼は表情を動かした。

「でもな、。全員を助けようとすんなよ」
「――」
「お前は、俺と日暮里を助けてくれた。そんだけでも十分だろ。世の中には何も出来ない奴らが大勢いるんだし?」

 その、一見冷たくも聞こえる言い方。だがそれは、たまに言葉が少なくて、冷たい印象を与えてしまうことがある、というだけ。本当は、優しい。

「土屋だって、お前がそうやって思ってくれてるだけで、嬉しいはずだろ。たとえ何の解決にもならなくても、俺だったら嬉しいね」
「……亮介は、私をいつも助けてくれるね」
「そりゃ当然だろ。俺はのこと、大好きだからー」
「――私も」

 いつものように流されると思っていたのだろう、月森は目を丸くした。

「亮介の優しいとこ、好き」
「……大好き?」
「だい、すき」

 照れた。見詰め合うこの状況に耐えられなくなって、目を伏せる。
 土屋のことと、木山のことで、頭がいっぱいになっていたはずなのに。自分の単純さが、恥ずかしく思えてくる。

「あのさ、
「……ん?」
「いや、あのね? つまり」

 月森が、そこまで喋ったときだった。
 静かな夜道に、携帯の着信音が鳴り響いた。





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