病院の廊下を歩く航たちの背中を見ながら、亮介は考え込んでいた。
は、大丈夫だと笑っていた。きっとその言葉に嘘はないだろう。だが、本当に何ともないわけがないだろう。多少の無理はしているに違いない。
気づけば、足を止めていた。
「わり、先帰ってて」
振り返った水沢が、小さく頷いた。
きっと水沢も気づいているのだ。がどれほど傷ついているのか、彼ならばよく知っているだろうから。
自分に何が出来る、と思う。正直、あの父親と真っ向からやりあえる自信はなかった。苦手なタイプだ。いわく、悪い人ではない、というが――やはり、あんな姿を見せられてしまったら、疑わざるを得ない。
良くも悪くも、自分の信念を曲げない人物なのかもしれない。そう、ある意味で航に似ている。
そっと病室のドアを開けると、ちょうど帰り支度をしている母親と鉢合わせした。
「あ、どうも」
「あら……さっきの」
「や、ちょっと、えーっと……心配、っていうか」
我ながら、しどろもどろだった。だが、彼女は戸惑いの表情を見せた後、微かに笑った。
「どうぞ。私はもう帰るから、ごゆっくり。心配してくれてありがとう」
「や、えっと、それじゃ」
結局何も言えていない。自己紹介くらいするべきだったかと思ったが、もう遅かった。
去っていく彼女の背中を見送った後、亮介は病室に入ってドアを閉めた。
「亮介でも、しどろもどろになるんだ。女の人相手なのに」
「あのな……」
一部始終を見ていたらしいが笑って、手招きをしてくれた。今は熱が一時的に下がっているだけなのだろう。僅かに咳き込んだ彼女は、やはり顔色が悪かった。
「無理させてた、よな。俺ら」
「違うよ、皆のせいじゃない。私が要領悪かっただけ」
「いや、でも」
「お父さんの言ってることも、間違いじゃないんだよ。何ていうか……お父さんの中では」
「ん、何となくわかるかも」
真実はきっといくつも存在するのだから。
ベッド脇の椅子に座って、何となく病室の中を見回した。
「……ってさ、実はお嬢様、とか」
「何で?」
「いや、何つーか、ドラマとかで見る金持ちの父親みたいな」
「あはは、それ面白い。普通だよ。まあ、お父さんは会社でも偉いほうだけどね」
の表情に、微妙なものを感じた。なんというか、彼女はきっと板ばさみなのだ。優秀な父親を誇りに思い、自分もそういう風になりたいと思う気持ちと、そんな父に疑問を抱き、反抗しようとしている気持ちと。
「そっち、座って良い?」
「うん」
が起き上がろうとしたため、それを助ける。それから亮介は、椅子からベッドへ座る場所を移動した。
「替えは効かねえよ?」
「え?」
「俺らは、一人欠けても駄目なんだよ。あいつらも、そう思ってっから」
変わらないわけがない。がいなくなった分の仕事は、きっと土屋がしっかりとこなす。練習に滞りもないだろう。
だが、そんなことは問題ではないのだ。
「がいなきゃ、嫌だ」
「亮介……」
「がタンブリング褒めてくれる瞬間が、俺の生きがいだから」
「大げさ」
が笑って、肩を叩いた。その手を掴んで、抱き寄せる。
「置いてかねえから」
「――え」
「お前の場所は、ちゃんと守っとくから」
が息を呑んだのが、はっきりとわかった。背中を撫でると、体が震えた。
「一緒に頑張ろうっつったじゃん」
「……うん」
「負けんなよ。俺がお前を守るから」
背中に回された腕に、力がこもる。
この気持ちに、嘘はない。これほど強い気持ちを覚えたのは、彼女が初めてで、きっと後にも先にもこれっきりだ。
愛おしいという感情を自覚したのも、きっと。
「こういうときに不謹慎かもしんねえけど」
「ん?」
「キスしても良い? 遊びじゃねえよ、本気のやつ。ってか、我慢できないんすけど」
少し体を離したが、驚いたのか目を丸くした。顔が赤いのは、熱が上がり始めたからだろうか。
「……本気のやつ、って」
「のためだけにするキス」
「――っ、え、嘘……や、うん、えっと、良い、けど」
目を丸くしたまま、ますます顔を真っ赤にしたが、俯いた。
もう一度抱き寄せて、笑う。
「目とか、瞑ったほうが良い?」
「ご自由に」
「え……じゃ、じゃあ」
しっかりと目を瞑ったの眉間に皺が寄る。
優しく髪の毛を撫でた後、その額にキスをした。
「……」
「目、開ければ?」
「え、お、終わり?」
「え、今のじゃ本気が伝わらなかった?」
からかうように笑えば、は顔を真っ赤にしたまま、首を横に振った。きっとこの赤さは、しばらく元には戻らないだろう。
「口にされると思った?」
「そ、そりゃ……」
「だって、俯いたままだったし、顔上げさせるのに苦労しそうだったし」
「えっ、ご、ごめん!」
まるで百面相だ。これほど表情を変える女の子に、今まで会ったことがあるだろうか。いや、きっとない。何故なら、今まで付き合ってきた女の子たちとは皆、あとくされのないような付き合いしかしたことがなかったから。相手の表情など、うわべしか見ていなかったと思う。
「じゃ、もう一回させてくれる? 今度は俺を見てから目ぇ瞑れよ?」
「――っうん」
そっと目を瞑ったの頬に触れる。睫毛がぴくりと震えたのが、はっきりと見えた。
その瞬間、思ってしまった。
――あれ、俺って今までどうやってキスしてたっけ?
思わず動きが止まる。もはやいつ、誰としたのかさえ覚えていない初めてのキスのときの、自分の心情だけがはっきりと蘇った。思い出したかのように、心臓が強く鼓動を打つ。
「好き」
ただ、それだけを伝えたかった。
ゆっくりと口付けて、離れる。静かに目を開けたが、本来の彼女なら照れるところだろうに、ぽかんとして固まった。
「亮介、すっごく顔赤いよ」
「嘘だろ。俺に限って」
「や、ほんとだって! 何か、私が照れるタイミングなくなっちゃったんだけど……」
「ちょ、、照れようぜ。おかしいだろ、これ。いつもと逆」
もはや何を言っているのかもわからない。
亮介は慌てて立ち上がって、荷物を掴んで、から離れた。
「俺、帰るわ」
「えっ、ちょっと」
「あ、明日! 明日の練習終わったら、また来るからな!」
それだけを必死に言って、逃げるように病室から出た。
「もしかしてこれが、初恋って奴ですか……」
理解していたようで、していなかった。小学生のときに純粋に好きだった女の子の顔が思い浮かんで、消えた。あの感覚とも、少し違う。
「俺も入院するべきかも……」
すれ違った看護師の女性が、不思議そうに亮介を見た。何とかいつものように笑い返して、また逃げるように、今度は廊下を走って病院を飛び出した。
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