柏木が、合宿の知らせを持ってきたある日のこと。
「俺はパス!」
航の声が部室に響いた。集中して練習できる絶好のチャンスなのに、何を言っているのか。悠太たちが諌めたが、彼は聞く耳を持たない。
「だって俺、枕変わると眠れないし」
「そんなの、持って行けば良いじゃないですか!」
まさか、航にそんな繊細な神経が備わっていたとは。誰もが内心そう思ったに違いないが、今はそれに触れている場合ではない。何とか説得しなければ――と悠太が更に諌めようとしたのにかぶせるように、亮介もまた口を開いた。
「俺もパス。連休、順子さんとデートだし」
「あ、じゃあ俺も、雛子といろいろ」
と、日暮里もまた適当な理由をつけたのとほぼ同時。部室のドアが開いて、入ってきたのはだった。
振り返った亮介が、逃げようとして日暮里にぶつかった。今の言葉を聞かれたと思ったのだろう。だが、は表情を変えずに、手元のノートに視線を落としたまま、階段を下りて柏木に話しかけた。
「先生、計算してみたんですけど、一人500円で十分そうですよ」
「あ、そうですか。それじゃあ皆さん、さんに500円払ってくださいね」
どうやらには亮介の言葉が聞こえていなかったらしい。ドアを隔てたいたので当然か。それにしても、そうやって逃げ出すほどやましい気持ちになっているのならば、最初からデートの約束などしなければ良いのに。というよりも、早く他との関係を清算すべきではないだろうか。
「……先生、やっぱ私も行かなくちゃいけませんよね」
「え?」
「いや、まあ……良いんですけど、別に。でも……」
が気まずそうに目を伏せた後、ちらりと亮介を見た。聞こえていなかったとわかっても、やはり亮介にはやましいところがあるのだろう、彼は誤魔化し笑いを浮かべた。
「あはは、や、なんでもないです」
「なんでもないって」
「いや、三連休、約束があったんですけど。でも大丈夫です、また次の機会にします、健太くんには申し訳ないけど」
それまでそわそわと、いろいろなところに隠れようとしていた亮介が、その瞬間に動きを止めた。悠太は何となく水沢を見る。だが、彼は全く表情を変えていなかったので、恐らく心配するようなことは何もないのだろう、と思った。
なら、例え浮気していたとしても、水沢に全て打ち明けてしまいそうなほど、彼を信頼しているから。恐らくその健太くんとやらがどんな人間なのかも、知っているに違いない。
「あの、ちゃん? その健太くんって何者」
「あ、皆、私に500円払ってね。行くつもりなら」
「え、無視?」
「さん、今1000円札しかないんですけど、お釣りとかありますか?」
「うん、あるよー。ちょっと待ってね」
「いや、無視って。そんな」
いっそ哀れになるほど、亮介が動揺している。
はそんな彼には見向きもせず、航を見下ろした。
「航、500円」
「だから、俺はパス! 行かねえよ!」
「あっそう。後で行きたいとか言いだしても、知らないからね」
「言わないっつーの!」
全員で参加しなければ意味がないのに。
何とかに説得してもらいたいと思っていた悠太は、当てが外れて困った。
「ふーん、じゃあ良いけど。じゃ、もし行きたくなったら、土下座しなさいよ? じゃなきゃ行かせてあげないから」
「行きたくならねえよ! 行くぞ、亮介、日暮里!」
部室を出て行く航を見送って、はため息をついた。あっさりしすぎている。きっと何か勝算があるのだろう。
「ねえ、!? その健太くんって」
「じゃ、私は先に体育館に行くから」
まるで亮介の存在など見えていないかのように、は最後まで無視して、部室を出て行った。あのにこやかな表情の下に、どんな感情が隠れているのか。
慌てて追いかけていく亮介を見ながら悠太は呟いた。
「聞こえてたんじゃないかな」
「……でしょうね」
「それで、健太くんって誰なんでしょうか」
「病院に入院してた小学生だよ。隣の病室にいた子と仲良くなったって話してた」
大方、三連休には見舞いに行くとでも約束したんだろ。
水沢がそう言って苦笑した。亮介も、水沢に助けを求めれば良かったのに――と思った悠太だったが、すぐにそれは無理だったと悟った。
水沢が、自業自得だよ、と呟いたからだ。恐らく、水沢もまた怒っている。きっと亮介がを泣かせようものなら、彼は絶対に亮介を許さないだろう。
「ま、まあとにかく、練習始めるか」
「そうですね。合宿まで、頑張りましょう!」
そうして、体育館へ入った悠太は、が何故あれほど悠然としていたのか、彼女の中にあった勝算が何だったのか、悟った。
航が、茉莉の背中を見つめたまま、恍惚とした表情を浮かべていたのだ。
あれほど行かないと言っていたくせに。そんな気持ちをこめて咳払いして、航に極力冷たい視線を送った。
「わーたーる。合宿行かないって言ってなかったっけ」
が心底楽しそうに笑って、航の肩を叩いた。
「すみませんでした……」
「合宿に行かせてください、ねえさん……」
「出来ればそろそろ俺を無視するのをやめてください、さん……」
問題児三人組が揃って土下座。
異様な光景に、女子部はぽかんとしてそれを見つめていた。
「じゃ、後で500円ずつ払ってね」
「ねえ、そろそろ教えてくれても良いんじゃね? 健太くんって誰」
「関係ないでしょ。あんたも後で500円払いなさいよ。じゃ、私はいろいろ忙しいから。練習頑張ってねー」
どうやら、の怒りも相当なようだ。
まさか、順子さんとデート、という言葉がに聞かれていたとは思ってもいないのだろう。亮介はもはやなりふり構わず、を追いかけていった。
そういうわけで、男子新体操部の合宿参加も、無事決まったのだった。
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