高杉がいない体育館では、選手たちが各々私語に興じていた。
指示された道具を運んできたは、ぼんやりとそれを見つめる。手にしていたファイルが、ひどく重く感じた。
彼らにとって、水沢の苦しみなど取るに足らない問題なのだ。
自分たちが面白ければ、水沢を傷つけることもいとわない。そう言っているようなものだ。
「ほんとなのかな」
「本人否定してなかったじゃん」
「っていうかさ、ちょっと気持ち悪くない?」
興味本位の声と、笑い声。
体育館中がそれらで埋まってしまったかのように感じて、は出口へ向かった。これ以上ここにいれば、自分まで壊れてしまう。悪意で満ちたこの空間は、人の心を麻痺させる。
「誰か本人に聞いて来いよ」
「木山くんのどこが好きなんですかー、とか?」
「マジに答えられたらキモイだろ、それ」
耐え切れなかった。
力を失った手から、ファイルが滑り落ちた。乾いた音を立てて落ちたそれを拾い上げる気力すらない。
その音をきっかけに、体育館が静まり返った。
「――いい加減にしてよ」
ひどく冷たい声が出た。
胸の痛みが、怒りに変わった。
「拓があんたらに何したって言うのよ! あんたらに、あの子の何がわかんのよ! あの子が、どれだけ苦しんでるのか、どれだけ傷ついたかも知らないで、どうしてそんなに……!」
怒りで声が震え、頭の中が真っ白になった。
「あんたらが面白がってるせいで、拓も、木山くんも、あいつらも、全員傷ついてるんだよ! どうしてそれがわからないんだよ、あんたら何様なんだよ! 他人を傷つけて笑ってられるほど、お前らは偉いのかよ!! ああ!?」
もはや、何を言っているのかわからないほどに、声は震えていた。体育館に反響した声が、自分の頭にも響き渡って、気分が悪くなった。
「お前ら全員、最低だよ! 人の痛みもわからないような、さいっていな、人間の――」
「それまでにしろ。それ以上言えば、お前もあいつらと同じになるぞ」
クズだ、と言おうとした自分を止めてくれたのは、いつの間にか現れていた高杉だった。
涙を流し続けるを見て、彼は無表情のまま、腕をつかんだ。
「練習の邪魔になる。出て行け」
押し出される。
涙で滲んだ視界に映った高杉は、行け、と低い声で言った。
体育館をフラフラと出た。階段を落ちるように降りたところで、今やってきたらしい鶴見と鉢合わせた。ボロボロと涙を零しているを見て、彼は心底驚いたらしい。もしかすると、彼は事情を知らないのかもしれない。昼休み、食堂にいなかったような気がする。それに、噂話に振り回されるような人間でもないように見える。
だが、それでも。
「……?」
「……!」
彼が、鷲津の人間だということが、の心を頑なにさせた。
目を背けて、走り去る。
もう誰も信用できない。そう思った。
「……拓、どこ」
校舎中を歩き回り、ようやく水沢を発見した。彼は、大きな講義室に一人いて、黙々と窓を拭いていた。
その背中を、しばらく見つめた。
きっと、自主的に一人になったのだろう。あの雰囲気の中、耐え切れるほど強くはない。の知っている水沢は、それでも一人、無言で耐え続ける人間だ。無理をしているのは間違いない。本当は、今すぐにでも崩れ落ちそうなほど、傷ついているだろうに。
「……」
振り返った水沢が、雑巾を床に落とした。
彼は優しいから。たとえ自分が傷ついていたとしても、幼馴染が泣いていたら、それを忘れて慰めてくれるだろう。そうわかっていたはずなのに、は涙を拭うこともせず、彼を見つめ続けていた。
「どうしたんだよ」
「……拓、ごめん」
水沢は、手の埃をはたいて、の肩に触れた。
傷がどんどん増えていく。深くなっていって、そのまま胸を貫通してしまいそうだ。
「……俺の、せいだよな」
「ちが……」
「誤魔化さないで良いから」
お互いに、傷ついた表情で向かい合った。
誰よりも傷ついているのは水沢であるはずなのに、それでも彼は自分の心配をしてくれる。そう思うと、の目からはますます涙が溢れ出し、ジャージの袖を濡らした。
「私、何も出来なくて……ごめん」
「いや……良いんだ。俺がおかしいのは本当だし」
「……! おかしいとか、言っちゃ駄目だよ」
「でも、実際おかしいだろ。わかってるんだ、自分でも。木山だって、迷惑だろうし」
何も言えなかった。自分は嫌悪感など覚えなかったが、それは水沢だからだ。もしも他の人間が同じことを言い出していたら、自分ももしかしたら、あの体育館にいた選手たちのように、面白おかしく語っていたかもしれない。
「……拓、私は、別に」
「うん……だけは、こうやって一緒にいてくれるんじゃないかなって、思ってたよ。結局、言えなかったけど」
「私は、これからも拓と一緒だからね」
自嘲するかのように笑う水沢の腕を掴む。彼はまた、心配をかけないように必死に笑っているのだろう。昔からそうだった。どれだけ落ち込んでいても、自分にだけは無理してでも笑いかけてくれる。
お互い様、ではあったけれど。
「……いや、も、俺と距離を置いたほうがいいと思う」
「え」
「まで変な目で見られるだろうし、それに、亮介が」
「あいつは関係ないよ。そりゃ……我慢させてるけど、でも、亮介が何て言っても、私は拓と一緒にいるって決めてるの。拓が――」
水沢が、そっと頭を撫でてくれた。結局、自分のほうが彼に依存していて、助けられている。そう思うと、自分の無力さに声を上げて泣きたくもなったが、はただ黙って、水沢を見上げた。
「拓が、一番、大事なの」
自分はきっと、ひどい女だ。
水沢も、月森も、どちらも選ぼうとして中途半端なことしか出来ていない。そのうち、月森のことをひどく傷つけて、そうして、諦めた。
それでも、覚悟は決めた。
何と思われようと、甘んじて受け入れよう。
は、水沢に気づかれないように、そっと薬指を撫でた。
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