「お前ら帰ってくんのはえーよ!!」

 頭の片隅に、そんな声が入ってきた。
 眠気と疲れのせいで、頭がひどく重い。部員たちは皆、帰りのバスの中で熟睡していたようだったが、は考え事に没頭していたせいで、ほとんど眠れなかった。
 考え事というのは、もちろん月森のことだ。
 水沢のことが解決した今、和解は可能だ。だが、にはいまだに消えない後ろめたさがあった。今更やり直したいなどと、虫のいいことは言えない。

「――だっ」

 ゴツン、という音がしたと思ったら、同時に額が痛んだ。騒いでいた部員たちが、途端に静まり返ってを振り返った。

「大丈夫? ちゃん、疲れてるんじゃない?」
「……ったあ、だ、大丈夫です。ちょっと寝不足で」

 カウンター席でぼんやりとしているうちに、意識を手放していたらしい。
 いつもならば、ここで月森が寄ってくるはずなのだが、彼はあからさまに視線を外して、携帯を触っている。背中を向けているにも関わらず、の頭には月森の表情まで思い浮かんだ。

「……私、ちょっと帰りますね。早く帰って寝なきゃ、明日からの学校が大変ですよ」
「あら、そう? またオムライス食べにいらっしゃい」
「はい、是非」

 傍らの荷物を掴んで、水沢を振り返る。彼は以前のように楽しそうにオムライスを食べていたから、本当に安心した。

、俺も一緒に帰ろうか」
「いや、平気。デザート食べてないでしょ? 拓はゆっくりして帰りなよ」

 水沢に手を振り、カモメを出た。視界の端に映った月森は、黙々とオムライスを食べていた。


「――亮介?」

 さて、が出て行った後のカモメでは、奈都子の冷たい声が亮介を襲っていた。頑なに携帯を見つめていた亮介が、ぎくりと肩を揺らすのを、全員が見ただろう。

「あんた、ちゃんに何したの」
「……や、俺は」

 結局、誰も悪くないから性質が悪い。
 亮介は、舌打ちしたい気分を抑えて、奈都子を見上げた。正直な話、怖い。ここで誰かに仲直りをしろと言われても、どうしようもないのだ。を傷つけたのは真実で、逆に、に亮介が傷つけられたのも、本当なのだから。

「違うんです。と亮介がこうなったのは、俺のせいで」
「水沢のせいじゃねえよ!」

 本当に、心の底からそう思う。もまた、水沢が悪いなどとは思わないだろう。

「どっちが悪いとか、そういうんじゃないっつーか」
「ふーん? だったら話は早いじゃない。さっさと追いかけて、話し合ってきなさい」
「いや、それが出来れば苦労はしないっていうか」
「あのねえ、あんたは今まで女の子相手に苦労したことなんてないんでしょ。本気で好きになった子にくらい、苦労してみなさいよ」

 もっともだ。今まで苦労したことがないからこそ、悩んでいる。どうしていいかがわからない。
 ただ、一つだけ言えることがある。それは――

「亮介、あんた、ちゃんのことが好きなんでしょ?」
「……そりゃ、もちろん」
「諦めちゃったら、後悔するわよ」

 まったくもって、奈都子の言うとおり。
 自分はが好きで、失いたくないと思っている。彼女は仲間でもあり、好きになった相手でもある。どちらか一つでも、その関係が崩れ去ってしまったら、後悔することは目に見えているだろう。
 は、どう思っているのだろうか。
 少しでも、やり直したいと思ってくれているだろうか。

「……行ってきまーす」
「ちゃんと送っていきなさいよ。ふられなかったらの話だけど」
「や、マジでそういうの洒落になんないんすけど」

 笑っている部員たちを残して、結局亮介もまたカモメを出た。


 そうして、その頃のはどうしているかというと。
 波打ち際に座り込んだまま、ぼんやりとしていた。寄せては返す波の音が、耳に心地よい。心を落ち着かせてくれるようで、つい聞き入ってしまう。水に手を浸して、再び考え事に没頭する。
 結局、行き着く先は一つだ。月森が好き、それだけの話。許してもらえるなら、やり直したい。
 明日にでも、思い切って呼び出してみようか。迷惑だと思われなければ良い。そんなことを考えて、立ち上がる。荷物の中からハンカチを取り出して、水に浸していた手を拭いた。
 そのときだった。急に強い風が吹き、油断した隙にハンカチをさらった。手を伸ばしたがとどまることなく、さらわれたハンカチは海に浮かんだ。

「うっそぉ」

 しばらく見つめていたが、波に運ばれてくる様子はない。それどころか、少しずつ陸から遠ざかっているように見える。
 困った。このハンカチは、母のものだ。
 結局、は諦めきれずに靴を脱いだ。それから靴下も脱いで、綺麗に整えて靴の上に置く。
 夏が近づいているとはいえ、水はまだ冷たかった。ハンカチを目指して歩く。膝の下まで水が来たところで、ようやくハンカチに追いついて、踵を返した。――その、瞬間。

!」
「へっ!? うわ……ああ!!」

 気づけば、は海の中に座り込んでいたのだった。尻餅をついたまま呆然としているを見下ろして、同じく呆然としているのは、他ならぬ月森だった。

「なっ……何、してんの?」
「いや、靴が綺麗に揃えられてたから……もしかしてよからぬことでも考えてんじゃないかと……いや、俺が間違ってました、すみません」

 突拍子もない発想だ。月森も、を転ばせた後に気づいたのだろう。素直に頭を下げた。
 どうやら、自殺でもしようとしているのではと勘違いした月森が、そのままの勢いで海に入り、に飛びついて止めようとしたところ、その弾みでがバランスを崩して転んだ、ということらしい。いまだに座り込んだまま、はそう察した。

「月森、靴」
「うわ、やべ、忘れてた! とりあえず出ようぜ! 風邪引くし!」
「えっ、や……ちょっと」

 月森は、の手を掴んで立ち上がらせた。そのまま、海から出ようと歩き始める。
 つながれたままの手に、は大いに焦った。その手は予想以上に熱く、初めて手を繋いだ日のことを思い出したのだ。ずぶ濡れだというのに、体温が上がっていく。

「着替え持ってるよな? ジャージで帰るの恥ずかしいかもしれないけど、大丈夫?」
「え? あ、うん……ずぶ濡れで帰るよりは」

 月森の言葉遣いは、どこまでも柔らかかった。気を遣っているのだろう。相変わらず視線は交わらなかったが、彼がこうして話してくれるのが嬉しかった。

「じゃ、行こ」
「え? どこ、に」
「俺んち。すぐそこだし」

 言うが早いか、月森はの荷物を奪い取って歩き始めた。
 止めなければ。このままなし崩しに関係が元に戻ったとしても、いや例え元に戻らないとしても、このまま曖昧に濁されてしまっては、二人の間に出来た亀裂は埋まらない。気まずいまま、部活を続けていけるはずがない。

「待って……! 月森、待って!」

 必死にその場に踏みとどまる。
 振り返った彼と、目を合わせる。

「――好き、なの。いっぱい考えたけど、やっぱり私は月森が好きで……だから、行けない。勘違いする」

 涙がこぼれた。それは海水と交じり合って、塩辛さを増す。

「……ごめんな」

 の涙を苦々しげに見つめていた月森が、小さな声で喋り始めた。

「俺がを守るって決めたのに、水沢にああいうこと言っちまって、マジで悪かったと思ってる。正直、ああいうところ見せたから、もう嫌われたかと思ったし」
「仕方ないことだよ。私だって、拓以外だったら、どうなってたかわかんない。私にとって、拓はやっぱり大事な幼馴染だし。でもね、月森には、悪いと思ってた。今更言っても、遅いけど」

 二人とも、相手の全てを受け入れようとして、失敗した。例え好き合っている人間同士でも、相容れないところはあるだろうに。
 もしも水沢のことがなければ、このまま二人は盲目に突っ走って、いつかはもっとひどい破綻を迎えていたかもしれない。

「――亮介」
「え?」
「亮介って、呼んで?」

 月森が、眉をハの字にして笑った。それはどこか無理しているようにも見えて、は戸惑う。

「……亮介」
、好きです。俺と付き合ってください」

 再出発の証。差し出された手を前にして、はそれを悟った。
 ゆっくりと、彼の手を握る。目を合わせると、久しぶりに満面の笑みが待っていた。
 触れるだけのキスをして笑った亮介は、しょっぱい、と呟いた。




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