「とりあえず、この部屋使って良いから。俺の部屋、隣。着替えたら声かけろよ」
「あ、うん……お邪魔します」
「それ、さっきも言ってなかったか?」

 とりあえず、ずぶ濡れのまま帰るわけにはいかないだろうという亮介の好意に甘えて、は少しだけと言い聞かせ、彼の家を訪れていた。言葉通り、亮介の家は海から少し離れた住宅街に建っていて、自分の家に濡れたまま帰るよりは良かっただろうと思う。おかげで、好奇の目にもほとんどさらされずに済んだ。
 ひどい有様だった。
 帰り道にクリーニングに出すのが得策だ。はべたついている制服を脱ぎながらそう思った。家に予備の制服があって良かった。
 頭から水をかぶったせいか、肌寒かった。くしゃみが一回だけ出て、鼻をすする。また風邪を引いてしまったら、今度こそ母親は部活をやめろと言い出すかもしれない。
 部屋から出て、隣の部屋の前に立つ。
 困った。生まれてこの方、水沢以外の男の部屋に入ったことがない。何人か付き合った相手はいたが、相手の家に行くほど深い付き合いをしたことはなかったし、一体どんな顔をしてノックをすればいいのかさえわからない。

「うわ、びっくりした」

 突然内側からドアが開いて、亮介が出てきた。立ち尽くしていたは思わず一歩下がって、彼を見上げる。

「髪の毛、ちゃんと拭けよ。顔色わりぃな。寒い?」
「え、いや……」
「中で待ってて。何か飲み物探してくる」

 さっきまで制服姿だった亮介も、普段着に着替えていた。どちらかというと部屋着に近いのだろうか。は初めて見る私服姿に目を奪われて、そのまま階段を降りていく亮介の背中を見送った。
 階下から冷蔵庫が開くような音が聞こえて、は我に返った。とりあえず、中で待たせてもらおう。今すぐ帰っても良かったが、亮介の私生活にも興味があって、結局その興味に負けた。


 それから。
 階下から飲み物を持って戻ってきた亮介は、部屋に入って唖然とした。

「いやー……大物だわ、この子」

 思わず独り言が漏れ出した。は、テーブルに突っ伏して眠っていたのだ。そんな無防備な姿を見せて良いと思っているのか。信頼されているのか、彼女が何も考えていないだけなのか――恐らく後者だと思う。
 クローゼットを覗いて、適当に上着を引っ張り出した。それは秋から冬にかけて着ている黒いカーディガンだったが、亮介は何も考えずにそれをの背中にかけた。
 そっと隣に座って、頬杖をつく。

「ま、眠れなかった理由は俺だろうけどね」

 顔に下に敷かれている手に触れる。その薬指には、いつも見ていたシルバーリングはなかった。それは今、亮介の荷物の中にある。音を立てないように、それを取り出す。
 ぐっすりと眠っているの指に、そっと通した。

「早く起きないと、ちゅーしちゃうぞ」
「……はっ」
「あ、マジで起きた」

 と同じような体勢になって顔を覗き込んだ亮介の存在を察したかのように、はぱちりと目を開いた。今まで眠っていたとは思えないほど、目を大きく開いている。

「……りょう、すけ」
「おーはよ」
「えっ、私、寝てた……? ごめん、何やってんだろ」
「いやいや、気にしないで良いから。ちゃんのベストショット、いただきましたー」
「嘘!」

 嘘だ。携帯をかざせば、彼女は寝顔を撮られたと思ったのだろう。慌てて起き上がって顔を覆った。今更隠してももう遅い。
 彼女の指に光るシルバーリングを見つめて、亮介は顔を綻ばせる。そこにそれがあるというだけで、嬉しい。

「それより、何か気づかない?」
「え? 何が?」
「じゃあヒント。手」
「手?」

 自分の手を広げたが、動きを止めた。視線は薬指に釘付けだ。

「ああ! 普通に受け入れてた! 今までこれがあるのが普通だったから!」
「ちゃんとやり直そうな」
「うん!」

 はにかみ笑いを見せたが、亮介の薬指に視線を落とす。もちろん、もうとっくの昔に戻している。

「もう返品不可だから」
「そうだね、亮介が浮気しなかったら」
「……っ、……返品不可だから!」
「おっけ、返品はしないけど、海に投げ捨てることにするね」

 清清しいほどの満面の笑みで、は投げ捨てる仕草をして見せた。返品されるより悲しいかもしれない、と思いながら、その手を掴む。
 抱き寄せて、そのまま唇を奪う。
 彼女以外とのキスなど、何の意味も持たない。そう思った。

「俺のキスはいつでも本気だから」
「……」
「あれ、信じられない? じゃあもう一回」
「ちがっ……もう! わかってるよ! ちゃんと!」

 口元を押さえて、は顔を背けた。その横顔が真っ赤で、更に触れたくなる。

「亮介は、私のこと諦めなかったもん……」
「……」
「それって、代わりはいないってことなんでしょ? 私だってそうだよ」

 何故か睨まれた。
 だが、その視線さえ嬉しい。決して睨まれるのが嬉しいわけではなく、彼女にこうして目を合わせてもらえるのが、嬉しいのだ。
 思わず苦笑して、頭を撫でた。
 やっぱり、と一緒にいるのが一番楽しいわ。そう囁きかけると、は顔を真っ赤にして、嬉しい、と言った。





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