「あれ、火野くん」
部室に入ると、いると思っていた部員たちはもうおらず、火野だけが呆然と立ち尽くしていた。
彼の右手には携帯電話が握り締められていて、彼らしくない力のない目でを見上げた。何かあったのだろうか。そう思ったが、どうせ話してくれないのはわかりきっている。
携帯電話をロッカーの中に放り込むように入れて、音を立てて扉を閉めた彼は、相変わらず無言のままの隣を通り過ぎようとした。
「体育館、早く行ったほうが良いよ? 今日はすっごいのが来てるから」
「……は?」
足を止めた火野が、を見下ろす。
「何だと思う?」
「知りません」
火野が足を止めてまで会話してくれるのが嬉しくて、は無駄に話を引っ張った。
だが、帰ってきたのは相変わらず冷たい返事。今日も和気藹々とした会話を諦めて、は答えを伝えることにした。
「マット」
「マット?」
鸚鵡返しをする火野に笑いかけ、はさっきマットを運んできた業者から受け取った伝票を見せた。
「そう。帝都大の高杉さんが、うちにって。やっぱあの人、良い人だよねえ」
「……」
の言葉など聞かず、火野は何かを考え込んでいるようだった。
「……先輩」
そうして、彼は表情も変えず――いや、彼にとっては当然の発言だったのだから、変える必要こそなかったのだが、言い放った。
「そのマット、僕が使ってもいいですよね」
「……は?」
不穏な空気を感じ取って、は表情を引きつらせる。
マットは、新体操部のものだ。火野にも使う権利はあるが、団体メンバーにももちろんその権利はある。
「いや、まあ順番にね」
「個人の仕上げが間に合ってないんですよねー」
まるで世間話をするかのような口調で、更に笑顔で、火野は言った。
それはある種の恐喝だった。火野の存在は、男子部にとって光のようなものなのだ。今までまともな功績を残していないこの部に火野がいることで、ようやく体育館を使う権利を得ていたのだから。
火野はに笑いかけると、部室を出て行った。
「ちょっ……もう」
また航たちと揉め事になるのだろう。
は慌てて火野を追いかけた。
そして案の定、体育館に入った火野はマット登場に沸く部員たちに、正面きって戦いを挑んだのだった。
「……ああ、もう」
何かひどく苛立っている火野と、相変わらず声を上げる航たち。悠太たちは目を丸くしていて、柏木はおろおろとしている。
結局、悠太が何とか主将の威厳を見せる形で争いを止めたのだが、火野はひどく不満のようだった。今まで、彼がこれほどまでに感情を表したことはあっただろうか。
「先生、今日の火野くん、何だかおかしくないですか?」
「……そうですね。いろいろ、あるんでしょう」
「まあ、そうなんでしょうねえ。でも、なーんか気になるなあ」
わざわざ火野の事情に首を突っ込もうとは思わない。彼とはほとんど会話を交わしたことがないし、深い仲でもない。一応新体操部の部員としての付き合いはあるが、そもそも彼のほうから自分たちを拒絶しているのだ。
「さん」
「ん、ああ、何?」
柏木と話していたに、ランニングに行く悠太が声をかけた。
土屋が自転車でついていくのはいつものことで、はいつもここで留守番をしている。
「悪いけど、練習の割り振り、お願いできるかな? 順番と回数が平等になるように」
「あ、うん。わかった」
「じゃ、俺たちはランニング行ってくるから。出来れば念のため、割り振りが決まったら皆にメールで送ってほしいんだけど」
「オッケー」
今日は特にやることもなかったので、助かった。
は早速体育館の机に向かって、作業を始めた。
それから、練習後。
着替え終わったは、いつものように部室を覗いた。
「ねえねえ、亮介知らない?」
「さっき、航先輩たちと一緒にジュース買いに行くって言ってましたけど」
「あーそっか。じゃあ待ってよう。拓が着替えるまでに来なかったら、拓と帰ろう」
そんなことを言っているの隣を、火野が通り過ぎようとした。
「あっ! 火野くん! ちょっと待って!」
「……はい?」
火野が怪訝そうな表情でを振り返り、上りかけた階段から足を下ろした。
「後で割り振り表送るから、メール教えてくんない?」
「良いですけど」
今まで全く必要ではなかったが、今日ついに必要になってしまった。いつか聞こうと思っていたが、やはり火野の雰囲気に足踏みしてしまっていた。
だが、予想外に、火野はあっさりと教えてくれた。嫌な顔をされたらどうしよう、と思っていたとしては、拍子抜けだ。
「じゃあ、後で送るね」
「はい」
短い返事だけを残して、火野は部室を出て行った。
練習前の苛立ちはどこへ行ったのか、今の彼は、どこか怯えた小動物のような目をしていた。いろいろと不安定な時期なのだろう、大会も近いし、彼ほどの選手なら、周囲の期待も大きいだろうから。
「おい、オムライス食いに行くぞ!」
「うわ、びっくりした。良いけど」
「ねえさん、見てくださいよ! 自販機で当たりが出てもう一本! どうぞ!」
「わ、すごいじゃん。ありがと」
だが、のそんな心配は、入れ替わりでやってきた航たちの賑やかさによってかき消された。
彼らはいつでも楽しそうに笑っている。それはきっと、どんな壁も仲間といるならば怖くないと思っているからか。彼らのまっすぐさが、今でも羨ましくなることはある。
そんなことを思いながら、は日暮里にもらったサイダーを開けた。
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