その日、柏木は一年生のあるクラスの担任が不在のため、臨時で自習監督をすることになった。
「皆さん、はじめまして。3年E組の担任をしております、柏木です。今日は吉田先生がお休みのため、僕が自習監督をすることになりました。吉田先生から課題プリントを預かっているので、皆さんはこれを仕上げましょう」
生徒たちは皆、静かにプリントに取り組み始めた。
普段、東たちの相手をしている柏木としては、これほど平和なクラスもない。次の授業の準備をしつつも、柏木は生徒たちを見渡して微笑んだ。
それから、10分ほど経った頃だ。一人の生徒が席を立ち、まっすぐに教卓の柏木に向かって歩いてきた。
その生徒の容貌を見た柏木は、思わず息を呑む。
日本人らしくない明るい髪の色と、着崩した制服。彼は表情も変えずに柏木の前に立つと、プリントを差し出した。
「――はい?」
「できました」
「え? ああ、ほんとですね……え!? もう終わったんですか!?」
このクラスの担任は、それなりに時間のかかる問題を用意したと言っていた。それを、たかだか10分で終わらせたというのか。
プリントの内容は世界史で、日本史担当の柏木にも理解できる内容だったため、念のため数問チェックしてみた。全て合っている。
「すごいですね……」
「先生、そりゃそうだよ。、超頭良いもんな。クラストップだし」
「そういう格好してんのに!」
生徒たちが茶化す。こういう容貌の割りに、クラスメートには好かれているようだ。
彼は、にこりと笑ってクラスメートたちを見渡し、おどけた口調で言った。
「ま、頭の良さに格好は関係ないってことだろ。さあ、皆も頑張って」
クラスに一人はいる、ムードメーカー的存在でもあるのかもしれない。ただ、柏木には気になることがあった。
その顔と、声、喋るときのイントネーション、間の取り方。似ている。
「先生、俺、寝て良い?」
「いや、寝るのはちょっと……。ところで、くん、ですよね」
「そうですけど」
名前を確認する。
航たちが話しているのを聞いたことがあるし、実際本人からも軽く事情の説明を受けている。恐らく、彼こそが――の弟だろう。一度土屋にそれとなく聞いてみたことがあるが、どうやら他のクラスの生徒たちには恐れられているらしい。確かに、クラスメートたちの視線を受けながらも、それを受け入れないような頑なさも感じられる。
「お姉さんは、もしかして、さんで――」
睨まれた。
なるほど、噂どおりだ。予想していた反応だったので、柏木は愛想笑いを浮かべて誤魔化した。だが、生徒たちは今の台詞を聞き逃さなかったようだ。
「え、くんって、お姉さんいたんだ」
「知らなかったの? サツキのお姉ちゃんって、亮介先輩の彼女なんだよ」
「え、あの人!? いっつも月森先輩にくっついてる人?」
「いえ、あれは月森くんが、さんにくっついてるんですけど」
思わず口出ししてしまった。生徒の私語を注意しなければならない立場だというのに、これはまずい。
「あの、皆さん、静かに」
「先生、くんのお姉さんって、どんな人?」
「え? そうですね……いつも部員の皆さんに目配りしていますし、後輩には慕われていますし、東くんもさんの言うことは聞きますし……成績も良いですし、素行にも問題ありませんし」
「へえ、やっぱお姉さんも頭良いんだ。遺伝かあ」
会話がそこまで続いた、その瞬間、弟が教卓を強く蹴りつけた。
「あんな奴、姉じゃねえよ!」
それだけを言い残すと、彼は教室を出て行った。ざわめいていた教室は静まり返り、誰もが噂話に興ずる余裕もなく、目を瞬かせてその後姿を目で追っていた。
昔から姉が嫌いだったわけではなかった。むしろ、幼い頃はいつも一緒にいたし、まるで双子のようだと言われていたものだ。
だからこそ、今は姉が嫌いだ。
好きだったからこそ、今は憎い。裏切られた、と今でも思っている。
「サツキ、どこに行ってたんだ」
「……別に」
「遅くなるなら母さんに連絡しろ。最近、たるんでるんじゃないか? そんなことだから、高校も烏森にしか合格しないんだ」
ここ最近、家の中がギスギスしている。特に父が常に苛立っていて、母は顔色を窺うばかり。姉が部活を始めて、父に反抗し始めたことが原因だろうが、それ以前にこの家の歯車は狂っていたのだと思う。
時が流れるのを、待つしかない。
ちょうど二階から降りてきた姉が、何かを察したのか、リビングの入り口で立ち止まった。
「あいつが言うこと聞かないからって、次は俺かよ。うっぜぇ」
「サツキ、何だその言い草は」
「そうだろ。二人とも、本当はあいつだけがいれば良かったんだろ。それが、俺のせいであいつは烏森なんかに進学するし、部活も始めて、言うこと聞かなくなって。俺さえいなかったら、こんなことにはならなかったんだよ」
驚くほど淡々と、言葉が出てきた。まるで台本を読んでいるかのように、抑揚もなかった。ただ、周囲の家族だけが大げさなほどに表情を変えていた。自分だけが大根役者のようだ。
それ以上、言うことはなかった。
これは自分の本心だ。それは、家族が少しずつおかしくなり始めた頃から抱いていた思い。自分さえいなければ、姉も、父も母も、幸せな家族のままでいられた。
姉の隣を通り過ぎた。滑稽なほど悲痛な表情をしていた彼女は、何か言おうと口を開いた。
ふと、昔父に叱られたときのことを思い出した。時間を忘れて遊んでいて、帰宅時間が遅くなった日のこと。父に叱られている自分を、姉はいつも庇ってくれた。
きっと今日も、同じように庇おうとしたのだろう。
だが、彼女の口から言葉が出てくることは、なかった。
「サツキ、どこに行くの?」
母の問いかけにも答えず、家を飛び出した。財布も携帯も持っていない。それでも良かった。
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