「やっぱ財布だけでも持ってくるべきだったか……」

 今更後悔してももう遅い。サツキは、鳴り続ける腹を抱え、街をさ迷っていた。そろそろどこかに落ち着かなければ、制服姿では補導される可能性がある。といっても、携帯も持っていないので、誰にも連絡がとれないし、友人の家に突然押しかけられるほど無神経な人間ではなかった。
 とあるコンビニの前を通りかかったときだった。よからぬ考えが頭をよぎり、無理やり店の光から目を背けた。だが、それが悪かった。ちょうど店から出てきた青年と肩がぶつかったのだ。青年はその弾みでビニール袋を落とし、そこからガラスの割れるような不吉な音が聞こえた。

「――あ」
「……ご、ごめんなさい」

 人のよさそうな青年だったことが唯一の救いか。
 慌てて地面に膝をついて、袋を拾い上げる。中を覗き込むと、黄色い液体がたまっていた。割れているのは栄養ドリンクのビン。

「うっわ……ほんと、ごめんなさい!」
「いや、気にしなくて良いよ。俺もぼーっとしてたし。それより、怪我はないかな?」
「あ、はい。あの、俺、弁償します……」

 全てが馬鹿らしくなった。家出した挙句、人様に迷惑をかけている自分が情けない。

「あ、財布持ってねえんだ……」

 余計に情けなく思って、うなだれる。だが、こともあろうに目の前の青年は、吹き出した。

「君、高校生だよね? こんな時間に財布も持たずにうろうろしてるって、何か訳あり?」
「いや、まあ家出中なんですよ。良くある話です、親父と喧嘩してって奴で」

 見ず知らずの人間だというのに、何故か素直に事情を話してしまった。彼の買い物を台無しにしてしまったという負い目があるからか、それとも彼の雰囲気が他人に口を開かせるような効果を持っているのか。

「俺さ、今から家に戻るんだけどさ。俺もいろいろ事情があってね、家にいるのが気まずくなって、抜け出してきたんだよね」
「そうなんですか」
「奇遇だよな。良かったら、ちょっと話さない? 他人に話したら落ち着くっていうし、愚痴でも言って、家に帰ったほうが良い」
「いや、俺は」

 帰りたくないのは確かだ。いくら愚痴を言ったとしても、この気持ちはどうにもならないし、家族も元通りにならないだろう。誰も追いかけてこなかったのが、更にサツキを頑なにさせていた。
 だが、このままフラフラとしていても、何の解決にもならないだろう。
 気づけば、サツキは先を行く青年の後を歩いていた。
 歩きながら、青年は自分が器械体操の選手であることを語ってくれた。器械体操と言われても、具体的な姿が思い浮かばなかったので、曖昧に返事しておいた。
 たどり着いたのは、無人の公園。ブランコに並んで腰掛けると、青年は自分のことを語り始めた。最初から自分のことを語るつもりなどなかったサツキとしては、その展開はありがたかった。

「うちにはね、君と同じくらいの弟がいるんだ。俺と弟は、父親の影響で器械体操を始めてさ。でも、俺は今でも続けてるんだけど、弟はあまり成績が伸びなくてね……」
「やめたんですか?」
「いや、新体操に転向した」
「……新体操」

 今、ある意味一番聞きたくない言葉だった。だが、彼はそんなサツキに気づかず、話を続けた。

「父さんは、それが気に入らなくてね。弟が新体操に転向したのは、逃げたからだと思ってる。弟が実際にどんな気持ちで新体操に転向したのかなんて、俺にはわからないけど……でも、今は真面目にやってるんだから、応援するべきだろ? 父親なら」
「……どうですかね。お父さんは、器械体操続けて欲しかったんでしょ? それじゃあ、しょうがないと思いますけど」

 親の期待を裏切るならば、それなりの覚悟をせねばならない、とサツキは思う。ただ、父親と喧嘩して家を飛び出した自分の言葉ではない、とも思うが。

「俺が結果を出せば出すほど、両親は喜んでくれた。でも、弟の居場所がどんどんなくなっていくようにも見えた。だから、俺も逃げるように寮に入ったんだ。あ、寮は強制だったんだけどね、あの空気から解放されると思うと、嬉しかったな」
「……家に残って、弟を庇おうとか、思わなかったんですか? あなたがいなくなったら、弟さんはますます居場所がなくなっちゃうんじゃないかな」
「思ったよ。思ったけど、弟は俺を嫌ってるみたいだし、同情だって思われるのがオチだよ。それに、俺は俺なりの目標を持って器械体操をやってるんだ。弟には悪いけど、その道を捨て切れなかった。父親のためじゃなくて、自分のためにね」

 姉の姿が思い浮かんだ。
 良く似ている。出来た兄と追いかけても追いつけない弟。
 だが、決定的に違うのは、姉が彼のように目標を持っていなかったということか。自分が見る限り、彼女は昔から両親の期待に応えることばかりを考えて、夢も目標も持っていないようだった。最近になってようやく、新体操という居場所を見つけたくらいだ。

「うちの姉とは、正反対ですね」
「お姉さんがいるの?」
「まあ、俺も姉のことは嫌いですけど。うちの姉は、あなたと違って、俺に同情して自分の道を変更したんです。合格確実って言われてた進学校を蹴って、烏森なんかに入学して。おかげで可愛がられてた父親にも失望されて、家はギスギスしてるし、烏森のレベルじゃ良い大学つっても高が知れてるのに。俺のことなんか、ほっときゃよかったのに。馬鹿なんですよ、姉貴面しやがって」
「そうか……」

 馬鹿な姉だと思う。独りよがりの優しさを発揮するから、こんなことになるのだ。
 ブランコに座ったまま足元の石を蹴り飛ばす。静かにそれを目で追っていた青年は、しばらくの無言の後、言った。

「君は、お姉さんがそういう風になったのは、自分のせいだと思ってる?」
「……そりゃ、そうでしょ」
「君にとって、お姉さんは――自慢の姉だったんだね」

 意識的に、眉間に皺を寄せた。それも、過去の話だ。両親に褒められ、いつも良い成績をとって帰ってくる姉が自慢だった。そして、鼻にかけてもよさそうなのに、いつも自分と一緒に遊んでくれて、いつでも自分のことを一番に考えてくれて――そんな姉が、好きだった。

「自慢の姉だったからこそ、嫌いになったんです。あいつは、親の期待だけじゃなくて、俺の期待まで裏切ったんですから」

 姉には、そのままずっと自慢の姉でいて欲しかったから。
 彼女の未来を奪ったのは他でもない自分だ。そう思うとますます姉に対する苛立ちが募る。下手な同情で、自分の未来を台無しにして、それでも笑っている姉が、嫌いだ。自分ばかり耐えているくせに、それを表に出さないようにしているあの笑顔を見るたびに、苛立つ。

「あれは、優しさじゃないですよ。ただの、偽善」
「……でも、俺はお姉さんが羨ましいよ。偽善だって思われたとしても、そのとき君と向き合おうとしてたんだろ? 俺には何も出来なかったし、今だって弟に対して何て言っていいのかがわからないから」

 彼が自分の兄だったなら、自分は恐らくここまで捻じ曲がらなかっただろう。悩むこともなかった。

「俺たち、生まれる家を間違えましたかね」
「そうかもしれないなあ」

 笑って、彼は立ち上がった。

「お姉さんは、君が家出したことを知ってるのかな」
「知ってますよ。姉の目の前で喧嘩しましたから」
「それじゃあ、話は早い。お姉さんはきっと、君を探してるんじゃないかな。君が自分の言葉に耳を貸さないって知ってても、それでもね――弟を心配する気持ちは、どこの姉も兄も、同じだから。だから、俺にはわかるよ」

 見ず知らずの人間の言葉だというのに、いや、だからだろうか、すんなりと納得できた。
 いくら自分が反発しても、姉が自分を弟だと大事にしてくれる気持ちには、嘘はないと思う。ただ、それを受け入れようとは、今は思えない。

「――サツキ!」

 まるで、タイミングを見計らっていたかのようだ。公園の入り口に人影が現れたかと思うと、それはこっちに向かって突進してきた。

「良かった……」
「何しにきたんだよ」
「お前さあ、お姉さまがせっかく心配して探し回ってたのに、その言い方はなくね? 俺だってまず謝るわ」
「つーか、何でお前までいるんだよ」

 何故か、月森まで一緒にいた。たとえ何があっても、この男にだけは絶対心を許したくないと、サツキは以前から何故か思っていた。よりによって、姉もこの男と付き合わなくとも良いだろうに。
 サツキは、青年に挨拶をして、二人の間を通り抜けた。

「サツキ……! どこ行くの!」
「――帰る」

 姉が何かを言う前に、この場を離れたかった。どうせまた、サツキは私の弟なんだから、などと言うに決まっている。そんな言葉は聴きたくなかったし、聞いたとしても受け入れられないと思う。
 きょとんとした姉が、気の抜けた声で、あ、そう――と呟いた。
 その日は珍しく、幼い頃を思い出しながら帰路を辿った。




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