次の日も、悠太はマットを火野に譲った。
しかし、問題はそれだけではなかった。何故か航まで、率先して火野にマットを使わせるようになってしまったのだ。当然、部員たちの反発は大きい。
何を考えているのか、全く読めない。
いつもチームを引っ張っている立場にあった二人の様子が揃っておかしいことで、部員たちの戸惑いも膨らんだようだ。最終的にはしぶしぶ従ったものの、不満げな表情をしないものはいなかった。
「だから言ったでしょう」
火野が、柏木に向けてそう言った。
「あの人たちは、真剣に新体操をやるつもりがないんです」
それまで部員たちを見送って困り顔を見せていただったが、火野のそんな台詞を聞いて、彼を振り返った。
今の言葉は聞き捨てならないだろう。
「火野くん」
ツカツカと火野に近寄る。
火野が彼らと仲良くしないのは自由だ。どうしても相容れない存在というのは、確かに存在する。だが、だからといって他人の真剣さを自分の物差しで計るのは間違っているだろう。
「言って良いことと悪いことがあるでしょ」
怒鳴ることはしなかった。
ただ、かなり驚いた様子の頬を、軽く叩いた。戯れ程度のもので、間抜けな音がした。痛みなどほとんどなかっただろう。
だが、火野は驚くほど大げさに、顔を歪めた。
「あいつらは真剣だよ。火野くんとは考え方が違うから、不愉快に思うこともあるかもしれない。でも、だからといって、他人を蔑むのはやめなさい。火野くんの価値まで下がる」
睨むような目をした火野だったが、彼はそのまま何も言わず、練習に戻っていった。
誰を見ても、何かを抱え込んでいる。自分も同様だ。
体育館内の空気が淀んでいるような気さえして、は新鮮な空気を求めて外に出た。
「どうも、納得いかねえ」
「まだ言ってんの?」
「当たり前だろ。俺ら、最近マット使った練習できてねえじゃん! タンブリングの感覚忘れるー」
「あんたにはセンスだけは備わってるから、大丈夫」
「だけはって」
乾いた笑いを見せて、亮介がそっぽを向いた。
一方で、はさっきから県大会のチラシばかりを見ている。出来上がったばかりのものが送られてきたのだ。自由に持って帰っていいと言われたので、一応一枚だけもらうことにした。
「そういや、お前」
「火野くんのこと?」
「正解。何、殴ったって? 俺らだってまだ殴ったことねえのに。いつか殴ってやろうと思ってたのに、先越されたー」
「あんたらと一緒にしないでよ」
きっと女子部の誰かが、噂でもしていたのだろう。
あの火野を殴る女は珍しい。女子部にとって、火野は唯一信頼できる男子部のメンバーで、憧れている人も多いらしい。ここだけの話だが、茉莉も相当火野に熱を上げているようだ。
「って、意外と口より先に手が出るタイプだろ。俺らも結構殴られるし、あの水沢も殴られたしなー。殴られてないのって、土屋と金子と木山くらいじゃね?」
「あの三人には、殴る要素が見つからない。まあ、拓や悠太くんもね、本来は殴られるようなことをする子じゃないけど、あんたらといるうちに変な影響受けてる気がして、ついね」
「ひどいだろ、それ。悠太とか、超とばっちり」
「確かに」
チラシを折りたたんで、カバンのポケットに突っ込む。
手が空くのを見計らっていたのか、亮介はすぐに手を握ってきた。長い指が自分の指に触れる瞬間が好きだ。ただ難点があるとすれば、亮介の手に握り締められると痛いということくらいか。
「まあ、話は戻るけど、何で殴ったんだよ」
「殴ったって言うか……ちょっとこっち向いて」
「は? って、いった! いきなり何すんだよ!」
「いや、痛くないでしょ。この程度、ちょっと叩いただけなんだから」
実演して見せた。亮介が頬を押さえてむくれる。ごめん、と一言謝って、再び歩き始めた。
「私さ、亮介と拓だけじゃなくてさ、新体操部の皆に助けられてるんだよ。航と仲良くなれたときは嬉しかったし、悠太くんは私に仕事くれるし、金子くんは勉強教えてくれるし、土屋くんとは仕事一緒にできるし、日暮里くんはいっつも笑わせてくれるし、木山くんは私を助けてくれるし。でもさ、そういうのって新体操部がなかったら、ありえなかったわけじゃん? あんたらが、ちゃんと真剣にやってるから、私はあんたらを応援したいと思うわけだし」
大切な居場所だ。
単純に、それを馬鹿にされたと思ったから、火野を注意しただけだ。火野もまた新体操部の人間で、ほとんど喋ったことはないが、彼が出してきた結果は新体操部の誇りでもある。だから、火野にはいつでも格好良くあってほしかった。誰かを蔑んで、その価値を下げて欲しくなかった。
「馬鹿にされたくないの。誰にも」
「うん」
「だから、殴った」
「つまり、むかついたから殴った、ってこと」
「……そう、なる?」
これでは昔の航と同じだ。目を丸くしたを見て、亮介は吹き出した。
「いや、俺らとは全然ちげーよ。何つーか、の暴力には愛があるから」
「愛?」
「そ。お母さんみたいな、お姉さんみたいな。俺ら、お前がそうやって見ててくれるから、上手くやれてるし」
照れた。
そんなつもりはないのだが、自分の存在が必要だと思われているのなら、それでも良い。
以前、父に言われた。
お前一人がいなくなっても、何も変わらない、と。
だが、きっと新体操部にいる限り、それは間違いだ。そう、自信を持って言える。自分は、いや、自分たちメンバーの誰であっても、いなければならない存在なのだ、と。
「今日、親父さんに話すんだろ?」
「……うん。いい機会だと思う。サツキのこともあったし、ちゃんと話す。認めてもらえなくても、私がどんなところで、どうして頑張ってるのかくらいは、知っていて欲しいから」
「頑張れ。俺が応援してる」
自宅には明かりが灯っていた。いつからだろう、この明かりが怖くなったのは。一人で部屋に引きこもることが多くなったのは。
だが、そんな日はそろそろ終わりにしなければならない。
終わりが来るのを待つのではなく。
「送ってくれて、ありがと。気をつけてね」
「俺、ちょっと航の様子見てくるわ。あいつも何かおかしかったしな。奈都子さんにでも相談してみる」
「うん」
「じゃな。また明日」
手を振る。亮介は、その手のひらに自分のそれを重ねて、笑った。
大丈夫だ。この暖かさがあるから。この暖かさは、亮介だけのものではない。きっと仲間たち全てのもの。
TOP NEXT