重苦しい空気の中、夕飯を食べ終えて、は一旦部屋に戻った。
 早々に席を立ったサツキの部屋は隣だが、物音一つ聞こえなかった。この間から、サツキはの顔を見ても何も言うことなく、ただ泣きそうな顔をして逃げていく。一度、部屋をノックしてみたが、返事はなかった。
 父は、流石にサツキの言葉が堪えたのだろう。サツキに対する小言は一切なくなって、ただ黙々と毎日を過ごしているだけだった。
 母も、もう諦めてしまったのか、何も言わない。
 昔は笑い声に溢れていた食卓が、沈痛な雰囲気を湛えていることに、誰もが耐え切れないようだった。本当は、皆がこの家族のことを好きだったのに、たった一つの選択からこうなってしまった。
 もう、逃げない。
 は、ふれあい祭りのときに撮った集合写真をしばらく見つめた後、ようやく部屋を出た。県大会のチラシを持つ手が震えていた。

「……お父さん、ちょっと良い?」

 父は居間でテレビを見ていたが、その番組はこれまで父とは無縁だったお笑い番組だった。恐らく、漫才の声など頭に入っていないのだろう。観客が巻き起こす笑い声のほうが、異質なものに聞こえて、はテレビの音量を下げた。
 ソファに座っている父が、ハッとしたようにを見て、何だ、とだけ言った。
 この時点で、もう逃げ出したいほどは怯えていた。また否定されたらどうしよう、と思うと手足が震えてどうしようもなくなった。

「これ」

 チラシをテーブルの上に置く。父は、それに一瞥をくれただけだった。

「応援しろとは言わないけど、わかってほしいの。今、私を助けてくれてるのは、新体操部の皆だよ。ここが、私の居場所だと思ってる」

 父は何も言わなかった。

「あのね、私はお父さんの期待に応えたい。高校でいいところに行かなかったのは、本当に申し訳ないと思ってる。勉強しろっていうお父さんのこと、間違ってると思ったことは一度もないよ。私が期待を裏切ったのは本当だから、ちゃんと頑張ってきたつもり」

 声が震えて、それが自分の耳に届いた瞬間、何故だか泣きそうになった。

「でも、私、昔からそうだった。お父さんに褒められるのが嬉しかったから、ずっと勉強も頑張ってきた。でもね、それだけだったの。将来の夢もなくて、数字でしか自分の価値を計れなくて」

 テストの順位だけが、自分の存在価値だと思っていた。
 他にとりえがないと思っていたから、そんな数字でしか自分の価値を見出せなかったのだ。

「でも、あいつらに会って、私はそれがすごく苦しいことだって気づいたの。夢を持って頑張ってる人の前に立ったとき、私は何てつまらない人間なんだろうって思った。だから、あいつらに憧れた。あいつらと一緒にいるようになって、私の交友関係も広がって、毎日がすごく楽しくなったの。それまでの苦しさとか、全部吹っ飛んだくらい」

 ふと、父が一言も言葉を発していないことに気づいて、顔を上げる。
 父は、まっすぐに自分を見つめていた。そこにある感情は読み取れない。だが、は憑かれたように喋り続けた。

「あいつらは、私のこと、いなきゃいけない存在だって、仲間だって言ってくれたの。初めて、数字じゃないもので私の存在価値みたいなものが、見えた気がした」

 形にないものだったけれど、それはハッキリと目の前に存在していた。

「だから、あいつらの信頼を裏切りたくない。でも、お父さんの信頼も裏切りたくない。どっちも、私にとっては大事だから」

 喉が渇いた。
 そう思ったとき、まるで見透かしたかのようにテーブルの上に水が置かれた。母が、泣きそうな顔をしたまま、微笑んでいた。

「サツキのことも……私は大事だよ。あの時、サツキを一人にしたくなくて、それで高校受験をやめた。それは間違ってたのかもしれないけど、でも私は――大事な弟のため、って思ったあのときの自分の気持ちは、間違ってないと思ってる。今でも、変わってない。いなきゃ良かったとか、思うはずがない。サツキは、私の自慢の弟だから」

 きっと父も、同じだ。
 自慢の息子だと思っていたから、思っていた結果が出なかったとき、ついきつい態度をとってしまったのだ。その結果がこうだと言うなら、後悔していないはずがない。
 素直になれなくて、臆病なのは、きっと血筋の問題だ。ふとそんなことを思った。

「私の言いたいことは、変わらない」
「……お父さん」
「自分の決めたことなら、最後までやり遂げろ。それが出来ない人間の言葉には、誰も耳を貸さないからな」

 何故か、今までと変わらない言葉だったはずなのに、温かくさえ聞こえた。
 は水を一口飲んで、頷いた。県大会を見に来てもらうのは諦めたほうがいいかもしれない。そもそも自分は演技をしないのだから、見に来てもつまらないだろう。
 そんなことを考えていると、ポケットの中の携帯が震えた。

「もしもし?」

 居間を出て、電話に出る。
 電話の相手は亮介だった。

、ちょっといろいろ伝えることがあるんだけど、航のこととか、悠太のこととか」
「は?」
「とにかく、悠太と航と、金子と日暮里。あいつら、俺らに隠れて居残り練習やってたっぽい。さっき柏木から電話があった」
「え、ちょっと、え?」

 よくわからない。
 亮介は慌てているようだ。どこかに体でもぶつけたか、電話の向こうから激しい物音が聞こえた。

「俺らも今から体育館に行こうっつってんだけど、はどうする?」
「今からって、もう11時過ぎてるんだけど」
「だから、お前は無理しなくても良いって。親父さんのこともあんだろ」
「まあ、そうだけど……。でも、悠太くんたち、何で」

 亮介は、ようやく柏木から聞いた情報を話してくれた。
 悠太は跳べなくなって、金子は悠太が交差技の練習をしないのは自分が未熟なせいだと思っている。だから、隠れて練習していた、ということらしい。

「何で私らに話してくれなかったんだろ」
「な?」
「私らは、ちゃんと味方なのに」

 行くしかないだろう。
 はちらりと父親を見て、そう決めた。深夜に外出することを許してくれるような人ではないが、今はそれどころではない。仲間が苦しんでいるときだ。助けるのが、彼らに助けられた自分のやるべきこと。

「新体操部の練習に行ってきます」

 電話の内容を、うすうす察してはいたのだろう。父は無言のまま、眉間に皺を寄せた。
 だが、はそれを無視して階段を駆け上り、ジャージに着替えて部屋を飛び出した。父が許してくれないなら、とことん話し合って、どれだけ遅くなっても彼らの元に向かいたい。
 勢いをつけて階段を駆け下りる。
 居間に、父はいなかった。母が小さな声で、気をつけなさい、と言っただけだ。
 父は、それほど自分に興味をなくしていたのか。自嘲気味にそう思って、は玄関のドアを開けた。

「高校生が、こんな時間に一人で出歩くんじゃない」
「……お父さん」

 外で、父が待っていた。

「乗りなさい。学校まで送っていく」

 車のドアを開けた父を呆然と見送った後、はハッとして助手席のドアを開けた。
 認めてくれたということなのだろうか。運転席の父を見ても、視線は合わなかった。

「全く、最近の高校生は。夜まで練習しないと勝てないほど、効率の悪い練習しかできんのか」

 そう言った父の横顔を見て、の涙腺は一気に緩んだ。
 泣き続ける娘を、父はどんな思いで送ってくれたのだろう。

「ありがとう」

 久々に口にした言葉は、ずいぶんと甘かった。



――大事な弟のため、って思ったあのときの自分の気持ちは、間違ってないと思ってる。

 居間のテーブルの上に放置されていたチラシを取り上げ、サツキはしばらくそれを見つめていた。





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