県大会まで一週間を切ったある夜のこと。
「、今日ね、水沢くんのお母さんに会ってね。一緒に県大会を観に行きませんかって言われたのよ」
「あ、そうなの? でも、私は別に出ないから、面白くないよ」
「何言ってるのよ。あなたがどんな人たちと頑張ってるのか、ちゃんと見ておかなきゃ。ねえ、お父さん」
「……そうだな」
夕飯の最中、母が嬉しそうに語り始めたことによって、は箸を落としそうになった。仕事が忙しい父のことだ、どうせ来ないのだろうと諦めていたのだ。
父は表情にこそほとんど出さないが、今では部活をすることを認めてくれた。もちろん、勉強と両立することが最大の前提だ。それでも、以前に比べると、かなりの前進だ。興味も示さなかったあの頃とは違う。
「水沢くんの応援しなきゃね」
「拓のタンブリングは本当に綺麗だよ。私、好き」
「、タンブリングって何?」
「宙返りのことだろう」
母の問いにが答える前に、父がさらりと答えてしまった。これにはも母も、更には黙々と箸を進めていたサツキまでもが目を丸くした。
「何で知ってるの?」
「……予想しただけだ」
「へえ」
母がニコニコと笑うため、父は誤魔化すように咳払いをした。
素直じゃない。自分にもこういうところがあるから、きっと父に似たのだろう。
食卓の雰囲気も、格段に柔らかくなった。母に笑顔が増えたことが、最大の要因かもしれない。ただ、サツキだけは頑なに団欒に加わるのを拒否していた。
今もそうだ。無言で箸を置き、席を立った。
「あ、サツキも一緒に行かない? たまには家族で――」
「興味ねえよ」
母にまでこんな言い方をするようになってしまった。出て行くサツキを見送る母の目が、悲しげに細められる。
父は、何も言わなかった。
その後、風呂にも入って部屋へ戻ってきたは、ベッドの上の携帯のランプが点滅していることに気づいて、拾い上げた。どうせ亮介だ、そう思ってディスプレイを見れば、そこには予想外の名前が書かれていた。
「もしもしー、わたるん?」
「おう」
航だ。彼とは今まで、業務連絡程度のやり取りしかしたことがない。その彼が、わざわざ自分に電話してくるということは、何かあったのだろうか。
「やだ、愛の告白なら受け付けないよ? 私には亮介がいるんだからっ」
「……気は済んだか?」
「はい、すみません。で、何か用?」
冷静すぎる返事が返ってきて、途端に恥ずかしくなった。
ベッドに寝そべる。今から明日の予習をするつもりだったが、航が電話してくるという珍しい出来事に驚いて、そんな気分ではなくなってしまった。
「親父のことなんだけどよ」
「……ああ、皆心配してたよ? 航は不器用だから、上手く話せなかったんだろうなって」
不器用だから、という理由以前の問題かもしれない。
父親と向き合うということが、子供にとってどれだけの意味を持つのか、には手に取るようにわかった。自分の場合は、幼い頃から父親の背中を見て育ってきた。だが、航の場合は今まで父親という存在を知らなかったのだ。知らないものと向き合うのだから、戸惑いも大きかったに違いない。
「俺、親父ってどんなもんかわかんなくてよ。正直、お前が親父さんとの関係で悩んでるっつっても、それがどういうことなのかとか、実はあんまりわかってなかったっつーか。話せばわかるもんだろって思ってた」
「いや、でも航のそういう前向きな態度みたいなのが、私にとっては結構助けになったよ。大丈夫なんじゃないかって思えたもん」
航があまりにもあっけらかんとして背中を押してくれたから、一歩踏み出せたというのもあるのだ。のそりと起き上がって、ベッドの上に座り込む。
「いや、自分のことになると、難しいんだな。結局、何喋っていいかわかんなくてよ、すぐ帰って来ちまった」
「あはは、そんなもんだよ、私だって普段は何か恥ずかしくて喋れなかったりするし」
航が電話の向こうで笑ったのがわかったが、その笑いがどんな意味を持つのかまでは読み取れなかった。
「悪かったな」
「え、何が?」
唐突に航が謝罪するものだから、は足を伸ばしかけていた体勢のまま、固まった。
航に謝られるような覚えはない。些細なことならば、お互いに謝ることはあるかもしれないが、わざわざ口に出すようなことでもないと思う。何故なら、それが友達だからだ。
「俺、お前のこと、わかってなかったんだなと思って。親父も弟もいねえからよ、多分、お前がどんな風に思ってるかとか、わかってなかった。水沢や亮介がお前のことばっか心配してんの見ても、心配しすぎなんじゃねえかって、思ったこともあるし。ちょっと話し合えば解決するって」
「いや、あの二人は過保護だよ。でも、私は臆病だから、あのくらい過保護にされたほうが、安心したけどね。航は全く悪くないよ。今までずっと逃げてた私が、悪いの」
航が気に病む必要など、全くないのだ。
「お前は逃げてねえよ。ずっと、全部背負って頑張ってたじゃねえか」
「ううん、それが逃げだったんだよ。自分の考えを否定されるのとか、失望されるのが怖くて、何も話そうとしなかったから。背負って頑張ってたって言うけど、私はどっちかというと、悲劇のヒロイン気取りだったのね。時間が解決するのを待ってただけで、自分から動こうとはしてなかった。動こうと思えたのは、航たちのおかげだよ。皆がいたから、私は頑張れた」
だからね、航。
囁くように航の名前を呼ぶ。
「私も、航に同じこと言うよ。頑張って向き合え、って」
「……」
「私にはずっとお父さんがいたから、航の気持ちなんて、全部はわかんない。でも、お父さんがいる嬉しさはわかるよ。お父さんがいるから、私がいるんだもん。航だって、これから先、お父さんと向き合っていけば、そう思える日が来るよ。だから、今、頑張って。私たちがついてる」
どれだけ背中を押されても、恐怖は残る。
だが、どうあがいてもその恐怖に勝てないときは、仲間がいるのだ。
しばらく無言だった航が、大きく息を吸い込む音が聞こえた。
「おう!」
「……! ……耳」
「あ、わりぃ」
電話の位置を右から左に変えて、笑う。
「それにしても、お前、親父さんのこと好きなんだな」
「まあ、それはね。今になってわかるけどさ、お父さんは私がどれだけ期待を裏切っても、ちゃんと見守ってくれてたんだよ。厳しいこととか、理不尽なこととか言われたけど、心配してたからこそ、でしょ?」
「そういうもんか」
「うん。今までは、お父さんをこれ以上裏切らないように、って思ってたけどね。これからは、お父さんを喜ばせたいから、頑張るんだ」
前向きになった。これは大きな変化だ。
以前は、何かに追われるかのように毎日を過ごしていた。だが、今は違う。この先にあるものを追いかけて生きていく。
「……お前の親父さんは、お前に恥だとか言ったこと、ねえんだな」
「――恥? え、うーん……心配はいっぱいかけてたけど、恥だって言われたことは、ないと思うよ。まあ、言われたほうが楽なんじゃないかと思ったことはあるけど。でも、何でいきなり?」
「いや、思っただけだから、気にすんな」
そんなことを言われても。
釈然としないものを覚えつつ、は曖昧に頷いた。まさか、航の父親が航に恥だと言ったのだろうか。
「言われたほうが楽、ってそう思う奴もいるんだな」
「もちろん、言われたくないけどね。ただ、お父さんの期待を裏切ったときはさ、いっそ恥だって言われたほうが、これ以上怯えなくて済むのになあって思ったことがあるよ」
「今は?」
「そりゃ、言われなくて良かったと思ってるよ。そんなこと言われたら、それこそ立ち直れないよ、私は」
「だよな」
悲観的になっていたときの話だ。今は違う。
そう否定すると、航は安堵したようだった。いまいち話が読めないが、航にもいろいろあるのだろう。いつか話してくれるときが来る。
「あ、わりぃ、話しすぎたな」
「あらら、もうこんな時間? 何か航との一年分の電話した気がする。航が珍しく私に相談みたいなことするから」
「いや、親父のことならお前だろうなって思ったんだよ! 悪かったな」
「そっか。役に立った?」
時計の針はいつの間にか一時間近く動いていた。
「おう。ありがとな」
「いいえ。航にはお世話になってるからね。何かあったらいつでも話して」
「何か変だな、お前にそういうこと言われんのって。ちょっと前まで考えたこともなかった」
「そうだねー。あの航が、私に相談って。一年前の私が知ったら卒倒するかも」
昔は、航どころか亮介や木山にさえ怯えていた。関わらないほうがいい、と思っていた相手と仲良くなってみて、わかる。
彼らと友達になれて、良かった。
それから少しだけ、新体操のことや亮介のこと、些細なことを話して、電話を切った。
「頑張れ、航」
最後にそう囁くと、切る間際だったにも関わらず、航はそれを拾い上げたようで、
「おう」
と、いつもの声音で返事をした。
きっと、彼はもう大丈夫だ。
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