次の日の朝、登校中のこと。最近使いすぎの兆候が出始めた部費について、ぼんやりと考えながら歩いていたは、前方に見覚えのある後姿を発見した。
 火野だ。
 どうするべきか迷って、しばらく無言で数メートル後方を歩いた。向かう場所が同じなのだから、仕方がない。どうせ挨拶をして会話をしようとしても、続かないに決まっている。
 しかし、ある瞬間、火野の足元が目に見えてふらついたことで、は思わず駆け出していた。

「危ない!」
「……!」

 道路にはみ出すところだった。
 目を丸くした火野は、の顔と、つかまれた腕を交互に見て、ひどく動揺したように見えた。ただ、想像していたよりも、彼の顔色は良かった。

「大丈夫? 具合でも悪い?」
「――いえ」
「そっか。考え事しすぎると、車に轢かれちゃうよ〜?」
「……すみません」

 最近の火野の様子は目に見えておかしいから。気づかないはずがないだろう。毎日顔を合わせているのだ、口に出さないだけで、部員たちも皆、気づいている。
 火野の腕を解放して、極力明るく話しかける。
 彼は気まずそうに目を逸らした後、ゆっくりと歩き始めた。
 は気づいた。火野の頬に、絆創膏が貼られていることに。航や亮介だったならば、喧嘩でもしたのか、と叱るところだが、火野に限ってそれはないだろう。どこかにぶつけたのかもしれない、などと思いながら、何となく隣を歩いた。

「先輩は」
「えっ、はい」

 突然、火野が口を開いたため、海を眺めていたの声は、驚きのあまり裏返った。

「先輩は――」

 何かを必死に言おうとしている火野の目を見つめる。
 今、彼は僅かに歩み寄りの姿勢を見せてくれているのかもしれなかった。
 わからないって言ったら、教えてくれるの?
 以前、火野にそう尋ねたことがあった。その答えが、今出ようとしているのかもしれない。身を乗り出しそうになりながら、火野と向き合う。
 だが、しばらくの躊躇いの後、彼は結局口を閉ざした。

「……何でも、ありません」
「そっか……」

 あと一歩だった。火野が居心地悪そうに目を伏せ、先に行きます、とだけ言い残して歩き始める。そのペースは今までと比べ物にならないほど速く、はついていこうとすら思わなかった。

「振られた?」
「うわっ!!」

 肩を叩かれ、飛び上がる。振り返れば亮介がニコニコと笑って立っていて。

「何その笑い」
「いや、別に? がまた首突っ込んでるなーと思って」
「失礼な。首突っ込まれて私にべた惚れした男の言う台詞か」
「ごもっとも?」

 いつから見ていたのだろう。彼は火野の後姿を目で追った後、あいつもいろいろあるらしいからな、と言った。

「いろいろって?」
「知らねえの? あいつの親父さん、器械体操の元オリンピック選手で、兄貴も器械体操じゃ有名らしい。って、昨日金子たちが言ってた」
「へえ……」
「火野ももともと器械体操やってたらしいけど、いろいろあって、新体操に転向したんだって。優秀な兄貴を持つと、いろいろ大変ってことだろ。誰かさんちの誰かさんみたいに」

 誰かさんちの誰かさんが一体誰なのか、はあえて追及せず、はため息を吐き出した。本当に、皆いろいろな問題を抱えているのだ。航もそうだし、火野も、自分も。

「あ、それより
「ん?」

 亮介にとって、火野のことは大した問題ではないらしい。
 自分を見下ろす彼の表情が不満げに変わったことに気づいて、は首を傾げた。何か不興を買うような真似をしただろうか。思い返しても、全く心当たりはなかった。

「昨日、ずーっと話中だったけど、誰と電話してたわけ?」
「え? 何か用事だった?」
「……用事がなかったら、電話しちゃ駄目?」
「いや、良いけど……」

 可愛らしい亮介の仕草に呆れた素振りを見せると、呆れたいのはこっちなんだけど、と返された。

「普通、そこで何か用事だった? とか聞く?」
「聞いちゃったもんはしょうがないよ。それに、亮介はいつもメールじゃん」
「そうだけど、昨日は何となく電話してみたの! っつーか、俺ら付き合ってんだから、電話くらいするだろ」
「そっか、そうだね。ごめん」

 素直に謝ったが、亮介にはまだ不満があるらしい。

はさー、絶対自分からメールとかしてこないし、たまに来たと思ったら部活の用事とか、サツキが家出したーとか」
「しょうがなくない?」
「なくない!」
「いや、だって。変なことばっかり考えちゃうんだよね。今メールしても大丈夫なのかなーとか、疲れてたら申し訳ないなーとか。悩んでるうちに亮介からメール来るし、良いかなって」

 淡白すぎるかもしれない、と自分で説明しながら思ってしまった。
 ただ、自分からメールを送るという選択肢が、きちんと存在するということだけは、しっかりアピールしておいた。

「……で、昨日は誰と電話してた?」
「航」

 正直に話すと、亮介は目を丸くした。確かに自分たちがああして長電話したことを、今でも信じられないが、それほど驚かなくてもいいだろうに。

「航ね、やっぱりまだお父さんのことで悩んでたみたいだよ」
「あー……だから、お前に?」
「そういうこと」

 複雑な表情をした亮介が、目を泳がせて、頷いた。

「あ、ところでね、亮介! 聞いて!」
「うん、何?」
「お父さんとお母さんが、県大会に来るって。拓のお母さんに誘われたみたい」
「へえ、水沢んちと仲良いんだ、やっぱ」
「うん。もともと親同士が仲良くてね。だから私らも小さい頃からずっと一緒だったの」

 両親が、自分のことを理解しようとしてくれているのだと思うと、嬉しかった。照れくささもあったけれど、自分の大切なものを知ってほしいという気持ちのほうが強い。

「良かったな」
「うん! これはもう、パーッと関東大会出場を決めるしかないよ、亮介!」
「ま、心配しなくても、俺がいれば余裕」

 本気なのか冗談なのか。恐らく後者だろう。得意げに言う亮介を見上げて、からかうように笑う。

「そうだね。着地したときに右足だけちょこっと後ろに行く癖がなくなればね」
「水沢だな!? お前にそういうこと教えたのは!」
「違うよー。まあ、拓も気づいてたけど。私もね、最初は、ああいうものなのかなって思ってたんだけど、拓に聞いたら、確かに亮介の足がずれてるときがあるって」
「……」

 瞬きを繰り返す亮介は、それってつまり、とつぶやいた。
 きっと彼が想像したとおりだ。

「私は、ちゃあんと亮介のことを見てるってことだよ」
――」
「ま、拓のタンブリングと比べた結果だけどね。私、拓のタンブリングが大好きだから」
「……お前! そういうこと言う!?」

 頬を軽くつねられる。無理に笑って見せると、それとは対照的に、亮介は表情をなくした。
 そうして、彼は拗ねたように呟いたのだ。

「そこは素直に、俺だけ見てりゃ良いのに」

 その台詞を聞いた途端、心臓が大きく脈打った。不意打ちだ。

「……ば、馬鹿! 見てるに決まってるでしょ! ちょっとした冗談なのに、そういうの、反則」
「ほんとに?」
「見てる!」
「そっかそっか。じゃあ、許してやろう」

 無表情はどこへ行ったのか。一転して嬉しそうに笑う亮介を睨み付ける。全く悪びれた様子がない上に、その上から目線は何だ。

「何か……騙された気分」
「んなことねえよ? 俺の本心言っただけだもん。と違って、俺は照れ隠しとかしないから」
「たまにはしてよ! もう!」
「やだ。照れ隠しとかしてたら、間に合わねえし」

 楽しそうに笑う亮介の背中を強く叩く。前につんのめっても、彼はその笑顔を崩さなかった。




TOP NEXT