ある休み時間。亮介がフラフラと廊下を歩いていると、前方からやってきたのは航だった。

「おう、亮介」
「航!」
「な、何だよ」

 父親に会いに行くといって遅刻してきた航は、どこか清清しい表情で。
 そういえば、昨日が航と長電話していたのだった。だからといって航を責めようとも思わないが、一体二人が何を話していたのか気になる。あまり追及しすぎると、面倒な男だと思われそうだとわかっていても、聞かざるを得なかった。

「お前……親父さんとこ、行ったんだって?」
「おう。いやー、やっぱどう話していいかわかんねえな。何の話したか、あんまり覚えてねえや」

 照れたように笑う航を見るに、それでも彼なりに何かが吹っ切れたということがわかる。
 親友として、それに関しては良かったと思う。本当に、心の底から。

「何話して良いかわかんなかったからよ、ここは俺のタンブリングを見せてやるしかねえなと思って、見に来いっつってきた」
「そっか……良かったな」

 最後のタンブリングが見せ場だからな、と力強く言っている航を見ていると、何故だか自分の悩みが馬鹿らしく思えてきた。

「亮介、は? 一緒じゃねえのかよ」
「は? いや、俺らだってたまには別行動するっつーの」
「そうか? 亮介がいつもくっついてるから、一緒にいるように見えるだけなのか」
「そうそう。いつも俺のほうがにくっついて……いや、それはいいんだけど、あいつに何か用なのかよ」

 このタイミングで航にの名前を出されると、妙に身構えてしまう。
 もちろん、航の様子を見る限り、やはりやましいことなどないようなのだが。当たり前だ、あの二人の間にやましいことがあるなど、地球が反対に回るよりありえない。

「昨日、あいつに言われたんだよ。親父と向き合ってみろって。絶対いつか良かったと思う日が来るからって」
「あいつが?」
「おう。やっぱ、親父との関係なら、あいつに相談すんのが一番だろ?」
「……まあ、そうだな」

 ふと思う。と航は、どこか似ている。自分も悩みを抱えているくせに、それよりもまず他人を優先するところ。また、他人の事情にはやたらと首を突っ込むくせに、自分の事情は隠そうとするところ。
 もしかすると、自分はのそういうところに、航と同じ匂いを感じて惹かれたのかもしれない。この二人のどちらも、一緒にいると妙に落ち着く。

「おい、何かうるさくねえか?」

 唐突に、航が辺りを見回した。
 言われてみれば確かに騒がしい。この喧騒はどこから伝わってくるのか、と辺りを見回せば、人の流れがある一定の方向へ向かっていた。

「喧嘩だって」
「マジで?」
「またあいつらじゃないの?」
「勘弁してほしいよなあ」

 そんな話し声がいろいろなところから聞こえてくる。あいつら、というのが自分たちのことだと、亮介はあっさりと看破して、言った張本人の肩を掴んで振り返らせた。

「俺らなら、ここにいんだけど」
「ひっ」
「勝手に人を犯人にすんなっつーの。なあ航」
「おう。で、喧嘩ってどこのどいつがしてんだよ」

 こっちはもう二度と喧嘩などしないと誓ったのに。まだまだ世間の目は厳しいというわけだ。
 しかし、喧嘩の渦中に自分たちがいないというのは、初めての経験だ。客観的に喧嘩を見るとどういうものなのか、興味本位で人の流れに従ってみた。

「一年が喧嘩してるって」
「マジで? 誰?」
「何か、ほら、一年の金髪の奴いるじゃん? 目立ってる奴」

 噂話に耳を傾けていると、聞き捨てならない言葉が聞こえてきた。
 まさか、と航と顔を見合わせる。人ごみを一喝して道を空けさせ、割れた海のような廊下を全力疾走した。

「ふざけんな! お前に関係ねえだろ!!」
くん……! やめなよ!」
「うるっせえんだよ! お前ら全員、どうせ影で笑ってんだろうが!! ふざけんな!!」

 案の定、人ごみの真ん中にいたのは、サツキだった。
 彼に殴られたのか、二人の男子生徒が床に蹲っていた。一方のサツキの口の端にも血が滲んでいて、相当激しくやりあったのだということがわかる。
 あんななりをしているが、喧嘩などしたこともないのだと思っていた。だが、喧嘩慣れした亮介の目には、彼がそれなりに場数を踏んでいるように見えた。
 喧嘩や乱闘の場には、踏み込んではいけないテリトリーのようなものがある。そこに第三者が踏み込んだ時点で、その第三者も巻き込まれる。きっと見ている生徒たちも、それを何となく察しているのだろう。だから、喧嘩をしている人間の周囲にはぽっかりと穴が開く。
 航と目配せをし合って、そのテリトリーに踏み込む。教師や生徒には止められないだろう。だが、自分たちになら、止めることができる。周りが見えないほど暴力的になっている人間は、それ以上の力で押さえつければ良い。

「おま――」
「サツキ!!」

 踏み込んだ瞬間だった。
 無防備に、テリトリー内に踏み込んだ人間がいた。だ。

「――!」

 血走った目をしたサツキが、踏み込んできた姉を見て、動きを止めた。
 一瞬、二人の間に何かが見えた気がして、亮介もまた動きを止める。サツキを睨み付けているの目には、強い光が宿っていて、思わず萎縮したのだ。この場にそぐわない雰囲気を持っているはずの彼女が、誰よりも強くこの場を支配したようにも見えた。

「……何だよ」
「何やってんの? こんなことして」

 蹲る生徒を見て、は悲しそうに目を伏せた。
 やはり、彼女にはこの場所は似合わない。それに、サツキの怒りはまだ沈静化していない。怒り狂う虎の前に歩み出たようなものだ。いくら姉でも――いや、彼らの場合、姉だからこそ、危険かもしれない。

、あぶな」
「亮介は黙ってて」
「……いや、でも」
「黙れ」
「はい」

 下がらざるを得ない。やっと言葉を交わせたと思えば、これだ。隣にいた航もまた、目を丸くした後、一歩下がった。

「姉貴面すんなっつってんだろ……」
「関係ない」
「ふざけんな! お前も、俺がいなけりゃ良かったとか思って――」
「いい加減にしなさい!!」

 まさに一喝。
 それだけで、サツキも、周囲の野次馬も、黙り込んだ。

「あんたが私のことをどう思ってようが関係ない! 人に迷惑かけてるってことを、まずは自覚しなさい!!」

 サツキが、やり場を失った拳を握り締めたまま、を睨みつける。
 紛れもなく、姉の姿だった。一歩も引かない。弟がどうして姉を超えられないのか、見えた気がした。

「あんたが軽々しく暴力を振るうような馬鹿じゃないことは、私が知ってる。けどね、サツキ。どんな理由があっても、きっかけが相手側にあっても、暴力をふるって良い理由にはならないの。頭冷やしなさい」

 サツキも、喧嘩の相手も、気おされたように黙り込んでいた。
 唖然として、振り返ったを見下ろせば、彼女ははにかんだ。いつもの彼女の表情だ。
 姉は強い。亮介の頭にあったのは、そんな一言だけだった。





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