「あなたたち、もう授業が始まるわよ」
呆れるしかない。職員室のドアに耳をつけて、中の様子を窺っている東と日暮里の姿を見ながら、江崎はため息を落とした。東と日暮里の後ろには、おろおろとしている土屋と金子、竹中はそんな彼らに落ち着けとばかり言っているが、彼もまた落ち着いているようには見えなかった。落ち着いているように見える水沢と月森は窓から外を見ていたが、恐らく最も動揺しているのはこの二人だ。唯一、本当の意味で落ち着いているのは木山だけだろう。彼だけは壁に寄りかかったまま、微動だにしなかった。
「ババアは黙ってろ」
「……」
「先生、さんは」
「……彼女はあの喧嘩を止めた張本人よ。褒められこそすれ、責められることはないわ」
いくら心配だからといって、職員室の前で見張られては、教師も生徒も落ち着かない。
気持ちはわからなくもない。普段、騒ぎばかりを起こす部員たちを見守る立場の彼女が、騒ぎの中心にいたのだから。
「……ただ」
「ただ!?」
「弟のくんがね、喧嘩の原因を喋ろうとしないのよ。殴られた二人も、妙に歯切れが悪いし。さんは何も言わないし……」
何か特別な原因があるのかもしれない。江崎はそう思っていたが、彼らの話を聞いている教頭は、そう思わないようだ。とにかく怒鳴るばかりで、どうにもならない。
「このままじゃ、くんには何らかの処分が下るかもしれないわ。二人も人を殴っているし、他にも巻き込まれた人もいるみたいだし。理由を言わないのは、自分に不利だからだろうって、誰だって思うわ」
「ちょっと待てよ! それで良いわけねえだろ!!」
「当たり前でしょう。今は柏木先生が必死に話を聞いてるけど、それでも喋らないなら……」
そうしているうちにも、中から微かな怒鳴り声が伝わってきて、江崎はますます頭を抱えたくなった。
ただ、それ以上に気になるのは、姉であるが、何も喋らないことだった。彼女は、この喧嘩を止めた張本人だから、咎めるために呼んだのではない。ただ、ことの顛末を知っているのではないかという理由と、その喧嘩の中心にいたのが彼女の弟だったから、という理由だった。
だが、彼女は職員室に入ってたった一言、
「弟に理由を聞いてください」
と言ったきり、何も言わなくなってしまったのだ。
その弟も理由を喋ることなく黙り込んでいるが、それでも。
二人のそんな態度に、動揺したのは殴られた側の生徒だ。怒鳴られているのは自分を殴った相手だというのに、ずっとおどおどしていて、普通の生徒ならば言う、俺は悪くない、という台詞さえ出てこない。
「あの……祥子先生」
とにかく、この部員たちを教室に戻さなければ、と奮闘していた江崎は、控えめに呼ばれた名前に気づいて振り返った。現れたのは、女子部の一年部員だった。
「私たち、見てました。最初から、全部」
「見てたって、もしかして、喧嘩を?」
「はい。あの、サツキくんは悪くないんです! 殴られた二人が、からかって」
江崎が続きを促す前に、水沢が進み出てきて、どういうこと、と尋ねた。やはり、彼が最も動揺していたのだ。
「からかったって、サツキを? あいつは、例え自分の悪口を言われても、聞かなかった振りをする奴だよ」
「からかったっていうか、絡んだっていうか」
「そうそう、絡んでたよね」
東たちが新体操を始めたことで、烏森の不良たちはすっかりおとなしくなったようにも見える。だが、いまだに東たちを笑う不良たちはいるのだそうだ。
サツキが、新体操部のマネージャーの弟だと知った――いや、どちらかというと月森亮介の彼女の弟だと知った不良たちが、それをネタに絡んでいたとしてもおかしくない。
「サツキくん、結構目立つから……気に入らないって子も多いみたいで」
「そうそう。それに、最近のサツキくん、ちょっと荒れてるっていうか……だから、不良の子たちも面白がってて」
なかなか本題に入らない二人だったが、部員たちは皆、何か思うところがあったらしい。暗い顔をして、その話を聞いていた。
教師が知らないところで、生徒たちはいろいろな問題を抱えては、解決し、乗り越えていっているのだろう。彼らを見ていると、そう思える。と、その弟の間にも何かがあるのかもしれない。
「最初は、いつもみたいに、かっこつけて良い気になってる、とかそういうこと言ってて。だからサツキくんも相手にしてなかったんです、でも……」
「サツキくんが相手にしないから、相手もムキになったみたいでー。ねえ?」
「うん」
「のこと、持ち出したんだろ」
水沢が、全てを見透かしたような落ち着いた口調でそう言った。
「まあ、あいつがあんだけ怒るってことは、のこと持ち出されたとしか考えられねえよなー」
「ひどいな。わざわざお姉さんのことまで持ち出さなくても」
部員たちが色めき立つのを見て、ようやく話が見えてきた。薄々勘付いてはいたが、あの姉弟の仲は良くないのだ。それをこの部員たちは知っている。きっと柏木も知っているから、必死になって話を聞いているのだ。
自分が下手に口出しすべきではない。江崎はそう判断して、女子部の部員たちの相手は水沢たちに任せることにした。
「それで、何て言ったんだ?」
「……本当はお姉さんが好きなんじゃないのか、とか。ムキになってるのは、お姉さんの気を引きたいからじゃないかとか」
「あと、お姉さんが新体操部のマネージャーをやってるのは……あの」
言いづらそうに目を伏せた彼女らの様子から、月森は全てを察したらしい。
作り笑顔を浮かべて、彼女らの言葉を継いだ。
「あー、わかってるって。前もそういう噂出てたしな。俺にくっついてたいから、とか、航と仲良くなって調子に乗ってる、とかでしょ」
「そう、だから……サツキくんが調子に乗っていられるのも、お姉さんが東先輩たちと仲良しだから、とか。月森先輩と先輩が別れちゃったら、大きな顔できなくなるぞ、とか言ってて」
「いや、別れねえよ。失礼な奴らだな、俺が殴りてえよ」
乾いた笑いを交えた月森の言葉を、彼女らは軽く無視して、話を続けた。
「この辺までは、サツキくんも何とか無視してたんです。でも、サツキくんが無視して教室を出たら、それも追いかけて、廊下で大声で……ねえ」
「その……お前みたいな弟、ほしくなかったに決まってる、って」
「そしたらサツキくん、そんなことはわかってるって怒鳴って。自分がいなかったら、あいつはもっと……って、そこまでしか言わなかったですけど」
「あいつって、のことだろうな」
水沢が重々しく言って、深くため息を吐き出した。
今の話から考えるに、喧嘩の理由を語らないのは、姉のためか。それとも、ほしくなかったと言われた自分の惨めさを姉の前で語りたくないからか。どちらにせよ、彼が抱えるものは重かったのだろう。
「今の、さんが聞いたら、また気に病むだろうな」
「でも、話さなかったら、弟さんが処分ですよ?」
部員たちが顔を見合わせる。
正直、江崎にも今の話をどう扱えばいいかがわからなかった。もちろん、教頭に事情を説明するべきだ。挑発のために他人の存在を否定するようなことを言った相手に非がある。暴力を振るったサツキにも非はあるに違いないが、今の話を聞いてしまったら、そこを考慮すべきだろう。
だが、今の話を、の前でしてもいいものか。話したとして、彼女の精神的フォローをどうするのか。
「――いや」
悩んでいる部員たちをよそに、水沢は首を横に振った。
「は多分、気づいてると思う。なあ、亮介」
「え? まあ……気づいてんじゃねえの? 確か……お前は軽々しく暴力振るう奴じゃない、とか言ってたし、原因は自分だって、わかって言ってたと思う」
だとすれば、今沈黙している彼女は、相当な苦しみと戦っているだろう。
ただ、フォローに関しては、自分たちの出る幕はないかもしれない。江崎はそう思いつつ、水沢と月森の顔を交互に見た。
「弟も弟で、いろいろ考えてんじゃねえの? 一回向き合わなきゃいけないってわかってんだけど、怖いんだろ。自分がいなけりゃ良かったっつって、前も家出してるし」
「ああ、そうだな。今まで反抗してきたし、逃げても来た分、なかなか向き合えないんだと思う。でも、確実に変わってるよ。それに、サツキはもともと、のこと、自慢の姉だと思ってたんだから」
「案外、殴った本当の理由も、のこと馬鹿にされたからだったりして」
「原因の一つにありえるかもな」
分析を始めてしまった二人を、ぽかんと見つめる部員たち。どこまで的を射ているかはわからないが、説得力はあるだろう。何せ、常に彼女と一緒にいる二人なのだから。特に水沢は、もう何年も彼女と弟のことを見てきたはずだ。その彼と対等に語り合う月森もまた、かなり深いところまで、あの二人の様子を見てきたのだろう。
やはり、フォローに関しては、心配せずとも良さそうだ。この二人と、部員たちに任せておけば、彼らなりに乗り越えるに違いない。そうやって放置することが教師としての正しい方法かは、別として。
水沢が、にこりと笑って月森の肩を叩く。
「じゃあ、のほうは頼んだから、亮介」
「おう、任せろ……って、俺!? いや、こういうときはお前だろ、水沢!」
「いや、亮介に任せるって。なあ、悠太」
「え? ああ、良い、んじゃないかな、それで」
無理、と首を横に振る月森の背中を、東が強く叩いた。
「お前なら出来るって」
「いや、何を根拠に」
「根拠なら、がお前にベタ惚れしてるってことじゃねえのか」
「木山まで」
誰がフォローしても構わないが、何にせよ、一つ確かなことがある。
江崎は腕時計を確認して、手を叩いた。
「次の授業が始まるわよ。戻りなさい」
不満げな顔をした彼らに、柏木先生がついてるでしょう、と伝えると、彼らはようやく頷いた。
最初は頼りないと思っていた柏木だが、彼らを見る限り、担任として、顧問として絶大な信頼を誇っているらしい。彼らにかかれば、教師でさえ、一緒に戦う仲間になるのだろうか。
何となくおかしさを感じて、江崎は口元に笑みを浮かべた。
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