は、昼休みになっても教室に戻ってこなかった。
4時間目の授業は、柏木の日本史だったが、彼はの席が空いているのを見ても、悲しそうな顔をしただけで何も言わなかった。きっと、彼女の弟が今日の大乱闘の中心人物だったという事実は、クラス中に知れ渡っていたのだろう。彼女がいないことに気づいたらしいクラスメートたちも、噂するだけで、彼女を探そうとは思わなかったようだ。
正直な話、無神経に噂をするクラスメートたちに苛立ったが、まるでそれを見透かしたかのように水沢が振り返って、首を横に振った。確かに、ここで自分が怒って何かを言ったとしても、彼女はきっと喜ばない。
「探してくるわ」
昼休みになって、亮介はようやく探しに行く決心をした。
それを水沢に伝えると、彼は頷いて、心当たりはあるのか、と尋ねた。
「かーなーり、ある。っつか、あそこしか考えられねえんだけど」
「じゃあ、頼んだ」
「……あんま自信ねえけどな」
持っていたノートをくるくると丸めて、亮介は階段を上った。
春も終わりに近づいて、日差しも徐々に強くなっている今日。だが、あの場所は日陰だからきっと大丈夫だ。そんなことを思いながら、屋上のドアを開けた。
彼女がここではないどこかにいるとしたら、お手上げだ。
ひょいと覗き込めば、やはり彼女はそこにいた。初めてここで彼女を見た日と同じ体勢で座り込んで、ぼんやりと空を見上げていた。
「よ」
「あら」
予想外に明るい顔と声で応対された。それがただの強がりか、素なのか、判断は出来ない。
「飯は?」
「食べる気になれない」
「あ、そう。でも、部活前にはちゃんと食えよ」
「はーい」
隣に座って、持っていたノートを差し出す。
怪訝そうにそれを受け取った彼女は、それを開いて目を丸くした。
「俺にはそれが精一杯。足りなかったら、柏木に聴きに行くか、金子にノート借りろよ」
「……ありがと」
普段は全く聞かない日本史の授業を、今日だけは真面目に受けた。ノートのとり方などわからないので、柏木の板書を丸写ししただけだが。きっと、彼女には物足りないだろう。一度ノートを見せてもらったことがあったが、全く聞いた覚えのない単語なども書かれていて、理解不能だった。
それでも、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
「見たかったなあ、亮介が授業受けてるとこ」
「俺はいつでものこと見てるけどね」
「どうりで、木山くんに同情の目で見られると思った」
「冗談だっつの」
「こっちだって」
顔を見合わせて笑う。
傷ついていないのだろうか。わかりきっていたことだから、今更傷つきもしない、ということなのか。だとすれば、悲しすぎる。
「……傷つかないよ」
まるで見透かしたかのように、がぽつりと漏らした。
「傷ついてるのは、サツキのほうだもん。なのに、私は何もしてやれない」
「……お前、また」
「サツキは、自分がいなければ良かったって思ってる。なのに、その原因を作った私は、一人だけ吹っ切って……サツキだってずっと耐えてきたのに――」
「いい加減にしろよ」
できる限り声を抑えて、言葉を遮る。怯えたような目をしたが、唇を噛み締めた。
「だったら、お前は俺らと会わなかったほうがよかったとか思ってんの? ずっと我慢したまま、親父さんに怯えたまま?」
「違う――」
「じゃあ、そういうこと言うなよ! お前はちゃんと向き合ったんだろ、逃げてんのは、あいつのほうなんだよ!」
「亮介」
どうして、彼女がこれほど苦しまなければならないのだろう。せっかく前を向けたのに、弟の一言で、彼女はまた全てを背負い込んでしまった。
自分勝手な言い分かもしれない。当事者の気持ちなど考えていない発言かもしれない。
それでも、自分は、自分たちは、彼女にそうあってほしくないのだ。背負い込んで、居場所から背を向けて、苦しみに身をおくような真似はしてほしくない。仲間だから、最後までずっと一緒にいてほしい。
「傷ついてんだろ、お前だって」
「……」
「だからって、お前まで、自分がいなけりゃ良かったとか言うなよ? 違うだろ、お前は気づいてないだけなんだよ。あいつがどんだけ、お前のこと好きなのか。あいつだって、お前のこと本当に嫌いなわけねえんだよ。お前のことが好きだから、お前が自分のせいで進路変えたことに傷ついてるし、自分を責めてんじゃねえの? あいつは、お前が姉なのが嫌なんじゃねえよ、自分が、お前の弟だったことを責めてんだよ。気づいてやれよ」
一気にまくし立てると、は涙をボロボロと零し始めた。
抱きしめて、頭を撫でる。
今言ったことに、根拠などない。だが、そうであってほしかった。決して姉を憎んでいるわけではないのだと、思いたかった。
「嫌がられても、姉貴面してやりゃ良いじゃん。お前は、あいつの姉なんだから」
しゃくり上げながらも、は頷いた。
もう一度頭を撫でる。自分にできることは、これくらいしかない。
「……亮介」
消え入りそうな声で、名前が呼ばれる。
「――あり、がと」
必死にそれだけを搾り出したのだろう。また泣き始めた彼女を抱きしめる手の力を強くする。
亮介の頭の中には、ある考えが浮かんでいた。
放課後、珍しく職員室に寄って、柏木から一枚の紙をもらった。それはただの紙ではない、自分たちにとっては大事なものだ。
「誰かに観に来てもらうんですか?」
「そういうこと」
親にも友人にも渡していないこの大会の広告。それを、血の繋がりもない、それどころか自分を敵視しているであろう人間に渡そうとしているのだから、自分も物好きだと思う。
不思議そうに自分を見る柏木に笑みを返して、職員室を出る。
「サーツキちゃーん」
一年の教室を覗くと、彼はそこにいた。からかうように名前を呼ぶと、今朝喧嘩をしていたときの目そのままに、振り返られた。教室に残っていた生徒や、廊下にいる生徒が、何事かと自分に注目していることに気づいていながら、亮介はドアに寄りかかったまま、動かなかった。
サツキが立ち上がり、亮介を無視して教室を出て行く。無視されることは予想済みだ。
「トトロ観たことねえの? そういうときは、はーあーい、って答えんだよ」
「……」
「無視? ねえ、無視? まあ、俺は慣れてるけど! お前の姉ちゃんにも、一日一回は無視されるし?」
「……っ何の用だよ!」
案の定、を引き合いに出すと、反応してくれた。
ようやく振り返った彼に、県大会の日程が書かれた広告を差し出す。だが、彼は一瞥すると、興味ねえよ、と突っぱねた。
「でも、には興味あんだろ?」
「ない」
「嘘だぁ、お姉ちゃん大好きなくせに」
「お前!」
自分より背の低い男に胸倉をつかまれて、前かがみになる。このくらいの脅しには慣れている。余裕を崩さずに笑ってやると、サツキは忌々しげに舌打ちをして、手を離した。
いつも冷静さを装っているようだが、挑発に乗ってしまう程度には子供なのだ。
そういう単純なところは、に似ているかもしれない。
「言ってんだろ、あいつなんか――」
「今のあいつは、自慢じゃねえの? 良い高校に行って、良い大学に行かなきゃ、あいつはお前の自慢じゃねえの?」
「――っ、そう、だよ」
思わず乾いた笑みが零れる。本当に子供だ。自分がどんな顔をしているかも知らないで、嘘をつく。大人になったつもりなら、もっとポーカーフェイスというものを身につけるべきだ。
「俺は、今のが好きなんだよ。俺らと馬鹿やって笑ってくれて、おせっかいだけど、いつでも俺らの味方でいてくれるから」
「……」
「というわけで、はい」
無理やり紙を握らせる。サツキは、拒否しなかった。ただ、受け取った手を力なく下ろしただけ。
「多分、お前の自慢の姉が、見れるんじゃね?」
これ以上、世話は焼いてやらない。
の弟でなければ、どうして好き好んで会いに行くような真似をしただろうか。こんな拗ねた子供を相手にしているほど、県大会を前にした自分に時間はない。
「あ、亮介、行くよー!」
「!」
「え、どしたの?」
「いや、元気になってよかったなあと思って?」
駆け寄ると、教室から持ち出してくれたらしいスクールバッグを差し出し、は満面の笑みを見せた。
亮介のおかげだからね。そう言ってはにかむ彼女の頭を撫でる。
「行くか。目指すは関東大会」
「いきなりやる気出したね」
きっと、このの笑顔を見れば、意地などあっさりと消え去るだろう。
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