「、ご飯よ」
「はーい」
元に戻りつつある家族の団欒。自分を呼ぶ母の声も、心なしか明るくなったかのように思える。父は相変わらず厳しさをその面に滲ませているが、その中には優しさが隠れているとわかった今では、気にならなくなった。
「サツキは?」
「部屋から出てこないのよ」
「じゃ、私呼んでくるね」
夕刊を読んでいた父が、顔を上げる。父は、サツキのことを諦めてしまったのか、それとも足踏みしているだけなのか、最近サツキの話をすることがなくなった。それでも父親だ、サツキのことを何とかしたいと思っているはずなのだが。
階段を上る足が、少しだけ震えていた。
決心したのだ。
これからは、逃げない。本当にサツキがまだ自分のことを姉だと思ってくれているならば、そしてそれを自覚することを恐れているならば、自分のほうから近づこう。あの時の選択は、他でもない自分の責任だ。サツキのせいではない。だから、気に病まないでほしい。
「サツキ、ご飯だよ」
ノックをしたが、返事はなかった。
「今日はハンバーグだよ。サツキ、好きでしょ」
ゆっくりとドアを開けると、サツキはベッドに寝転んだまま、天井を見つめていた。
「いらね」
たった一言、彼は口にして、寝返りを打った。向けられた背中。そこに頑ななものを感じて、は目を伏せた。
本当に食べたくないのならば、仕方がない。無理に誘っても、余計頑なになるだけだろう。
「サツキ、今日は皆の前で怒鳴ってごめんね」
「……」
「でも、私、サツキが人を殴ってるのとか見たくなかったから。あんまり危ないまねしちゃ駄目だよ。お母さんたちも心配するから」
また嫌がられるのを覚悟で、言葉を紡ぐ。
だが、サツキは声を荒げることなく、静かに言った。
「悪いけど、出てって」
今までの拒絶とは違う、懇願するような声音だった。
胸が痛んだ。
「今、あんたの顔見たら、何も考えられなくなるから」
「……うん。でも、ご飯は食べてね」
グシャリ、と何か紙のようなものを握り締めるような音がした。
その音を境に、まるで呪縛が解けたかのように、の足は動き出した。部屋を出て、ドアを閉める。
いつか、この部屋からサツキが、前のような笑顔で出てきますように。
「サツキは」
「食べたくないって。具合が悪いみたいじゃないから、多分後で食べるよ」
「……そうか」
夕刊を畳んだ父が、天井を見上げた。
やはり、父もサツキのことを大切な息子だと思っているのだ。はそう感じて、母と目を合わせて微笑んだ。きっと、家族の全員が気づいている。サツキが今、自分の中の何かと戦っているということに。そして、自分たちには見守ることしかできない、ということに。
英語の予習を終えて、一息をついた。かなり集中していたのだろう、それを切ったとき、まるで目が覚めたような感覚だった。
サツキのことが、徐々に解決の兆しを見せ始めたからかもしれない。今までは隣の部屋が気になっていたが、今日はそんなこともなかった。この調子で、明日の古典の予習まで終わらせてしまおう、そう思って、一旦席を立った。そして気づく。
「携帯」
ずっと放置していた携帯が、今日は一度も鳴っていない。マナーモードにしていたので、気づかなかっただけかと思って拾い上げたが、やはり新着メールも不在着信もなかった。
亮介からメールが来ない日は、もちろんある。だが、来ないと妙に心配になるのだ。連絡がない日はたいてい、航か日暮里の家に顔を出している日なのだが、今日もまたそうなのだろうか。
「ま、いっか」
良くない。
口癖になっている妥協の言葉を、は慌てて飲み込んだ。
絶対におかしい。今日は、学校でサツキが喧嘩をして大変なことになった日なのだ。そういう日には必ず、何かしら気を遣って連絡をくれるのに。
一瞬の逡巡の後、携帯を操作した。
メールを作りかけて、すぐに消した。もどかしい。何を焦っているのか自分でもわからないが、は急いで亮介を呼び出した。
「もしもし、亮介?」
「え? うん、俺だけど?」
「ねえ、今航と一緒?」
「いや?」
「じゃあ日暮里くん?」
「別に。普通に家だけど」
戸惑っている亮介の様子にも気づかず、は捲くし立てた。航や日暮里とは一緒にいないというところまで聞いて、息をつく。
「で、」
「ん?」
「何か用? 俺、忙しいんだけど」
目を見開く。まさか、亮介の口からそんな冷たい言葉を聞くとは思ってもいなかった。もしかすると、何か怒らせてしまったのかもしれない。しかし、帰り道に別れるときまで、彼の様子は普通だったのだ。
まるで自分と亮介が入れ替わったような――
ひらめいた。
「仕返し?」
「あ、わかった?」
今朝のやり取りが思い出されたのだ。きっと亮介は、いつも自分が言われている言葉を逆に言ってみただけ。ちょっとした悪戯のようなものだ。
「もう」
「俺の気持ち、わかった?」
「すごくわかった。でも、忙しいんだね、そっかそっか。じゃあまた明日。バイバイ」
「怒んなって。ほら、機嫌直して。何か言いたいことあったんじゃねえの?」
自分は焦ったのに、亮介のほうは悠然としていて、何となく苛立った。
ただ、言いたいことがあったのは確かだ。
「傷ついてないよ」
「うん」
「ほんとだからね」
「わかってるって」
サツキが絡むと、傷つくことが多かった。亮介にもかなり心配をかけただろうし、特に今回はその度合いも大きかっただろうと思う。
それでも、今日は傷ついていない。姉として、以前のように接して。サツキは弟だという意識が強くなっていた。
「もう大丈夫」
「そっか」
電話の向こうで、亮介が笑った。自分を見つめて笑う彼の表情を思い出して、もまた微笑む。あの笑顔は、自分だけのものだ。他の女の子では到底たどり着けない。
「それだけ、なんだけど」
「そっか。で、時間は? 大丈夫か?」
言われて初めて、自分が勉強中だったということに気づいた。時計を確認して、頭の中で計算する。
「うん。だいじょぶだよ」
「じゃあ、俺ともうちょっとお話してくれる?」
「する」
せっかく自分から電話をかけたのだから、今日くらいはゆっくりと話してみたい。
椅子の上で足を抱える。ふと見えた鏡に映った自分の顔が、僅かに赤くなっていることに気づいてしまった。
何となく鏡の中の自分を見ながら、喋った。面白いほどに、笑っている。ただ、声から察するに、亮介も同じように笑っているのだろうと思う。
「亮介、県大会、自信ある?」
「んー? そりゃ、自信なかったら、最初っから関東大会とか目指さないだろ」
「そうだよね」
目前に迫った県大会が、待ち遠しいような、怖いような。そんな気持ちになっているに彼も気づいたのだろう。ことさら明るい声で言った。
「大丈夫だって。俺がちゃんを関東大会に連れてってあげるから」
「うん、拓に連れてってもらう」
「おい!」
「冗談だよ」
電話越しに笑い合う。早く明日になれば良い。そうすれば、彼に会える。
柄にもないことを思ってしまい、鏡の中の自分の顔が真っ赤に染まったのがはっきりと見えた。
「私も頑張るよ。行こうね、関東大会」
「おう、絶対行こうな! ……あいつのためにも」
「ん?」
一段低い声で発せられた言葉が聞き取れず、首を傾げる。
だが、亮介はすぐさま声を元のトーンに戻した。
「何でもない。ちょっと疲れてんのかも」
「え、大丈夫? 私ならもう良いから。寝たほうがいいよ」
「ん、そうする。また明日、学校でな」
「うん。おやすみなさい」
おやすみ、と言った亮介の声が、やけにはっきりと耳に残った。
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