「急げ急げー」
段ボール箱を抱えて廊下を疾走するの道を、生徒たちが空けていく。が、走っていた彼女は、何かを見つけて唐突に足を止めた。
「火野くんっ」
前方から火野が歩いてきていたのだ。いつもなら軽い挨拶程度ですれ違うが、今日はどうしても火野に謝りたいことがあったのだ。
「火野くん、こないだはごめんね」
「は?」
火野には謝られる心当たりなどないようで、彼は怪訝そうに眉をひそめた。
「いや、前にさ、火野くんを叩いたことあったでしょ? 私、こないだ弟にさ、どんな理由があっても暴力は駄目って言ったんだけど、よく考えたら、火野くんも私に叩かれてるし。だから、ごめんね」
「……」
目を泳がせた火野が、ああ、と冷めた声で言った。
あの時は、軽く叩いただけだ。赤くなるほどでもなく、きっとほとんど痛みもなかったと思う。それでも、手を出してしまったのは事実だ。
「気にしてません」
「そっか。でも、ごめんね」
「……あれは、暴力じゃないでしょう」
火野がため息とともに吐き出した。早く解放してほしいと言っているように見えるけれど、彼はしっかりと向き合ってくれていた。
「少なくとも、ああやって面と向かって叱ることだって、必要だと思いますから」
「……火野くん」
失礼ながら、熱でもあるのかと疑ってしまった。
彼は苦々しい表情で、痛めつけるためにやったことじゃないんでしょう、と吐き捨てるように言って、通り過ぎていった。
目からウロコが落ちたようだ。足早に去っていく火野の後姿を見ながら、は呟いた。
「ありがと」
「独り言っすか?」
一人が去れば、また一人。
背後から顔を出したのは日暮里だった。
「びっくりした……!」
「あ、すみません。それよりねえさん、持ちます!」
「あ、ありがとう」
新しいユニフォームを取りにいったが遅いので、日暮里が様子を見に来てくれたのだろう。彼は段ボール箱を受け取って、が見ていた方向に目をやった。そこにはまだ火野の後姿があって、日暮里もが会話していた相手が誰だかわかったらしい。
「火野と話してたんすね」
「あ、うん。前に火野くんを叩いちゃったからさ、謝ってた」
「ねえさん、俺らは?」
「うん、謝ろうと思ってたんだけどー」
俺らも毎日殴られてますけど!
そう言って笑う日暮里に、笑い返す。日暮里は被害に遭っていないほうだ。被害を受けるのは大体、航か亮介なのだから。だが、それでも彼らに一言謝ったほうが良いだろうか、と思っていた。
ついさっきまでは。
「あれは、私の愛だから、いっかなって」
「そうっすよねー。ねえさんに謝られたら、亮介さんなんか、倒れちゃいますよ!」
「どういう意味?」
「すみません!」
火野が言ったように、確かに毎日のように航たちをノートで殴っているが、あれは痛めつけようとしてやっているわけではない。反応が楽しいから、という理由も僅かに存在してはいるが、本来はある種のスキンシップのようなものだ。
自分はただ彼らの温度を感じていたいだけなのかもしれない。
彼らを叱ること、ふざけあうことで、ここに居場所があると実感していたい。
「まあでも、今度からちょっと控える」
「俺は慣れてますけどね、毎日兄貴と亮介さんにどつかれてたから」
「それも愛だよ」
日暮里には、ちょっかいを出したくなるような何かがあると思う。
それは、彼の長所なのだろう。誰からも愛されるような、ムードメーカー。
そんなことを考えていると、日暮里がニコニコと笑って言った。
「でも、皆嬉しいんじゃないっすかねー。兄貴も亮介さんも姉ちゃんいないし、俺も長男だし。ねえさんって、弟がいるだけあって、姉ちゃんって感じがして。こう……叱られて嬉しい、みたいな」
「同い年だよ。それに、日暮里くんはともかく、あんな弟はいらん」
「そっすよね。俺も、あんな兄貴はほしいっすけど、あんな弟は嫌っす――あ、今の内緒で」
お互いに、弟がいるからこそ思うことだろう。あの二人のような弟がいたら、姉や兄である自分たちの神経は磨り減って、今頃大変なことになっていただろう。
ただ――
「ま、ああいうやつらでも、弟だったら弟だったで、私らもちゃんと適応しちゃうんじゃない?」
「そうですか?」
「うん。だって、それが姉とか兄ってもんでしょ」
どんな弟だろうと、家族であり、自分たちが年長者である限り、結局は弟として愛してしまうのだろうと思う。自分たちなりに、もがきながらも。
そう言うと、日暮里は目を泳がせた。どうやら、本当にあの二人が弟だった場合を想像しているらしい。しばらく青くなったり目を白黒させたりしていた彼も、最終的にはおずおずと笑う。
「そうなると良いっすけど……でも、やっぱ兄貴が兄貴で良かったっす」
「そだね。私も、亮介が弟じゃなくて彼氏で良かった」
二人で顔を見合わせて苦笑い。
彼らとは、今の彼らだからこそ仲良くやれている。もしも一年でも誰かが先に生まれていたら、こんな関係は望めなかったかもしれないのだ。
「でも俺、ねえさんが姉ちゃんだったら良かったって思うことはあるっすよ」
「あれ、私も日暮里くんが弟だったらなって思うことがあるよ」
「でも、ねえさんにはもう弟がいるじゃないっすか」
「うん、そうだよ」
サツキは大切な弟だ。だが、もう一人弟が出来るとすれば、日暮里のような弟が良い。
「俺、姉さんのあいつに対する態度とか見てて、ますますそう思うようになったっつーか……あんだけ向き合ってくれる姉ちゃんって、いないっすよ」
「そうかな。そんなことはないと思うなあ。雛子ちゃんとか、良いお姉ちゃんでしょ」
「あいつは生意気なんすよ!」
「そうやって、生意気だ何だって喧嘩できるのって、幸せなことだよ。まあ、日暮里くんは誰よりもわかってると思うけど」
雛子との喧嘩の内容を熱っぽく語っていた日暮里が、言葉を切ってを見下ろす。
「雛子ちゃんのこと、自慢の妹だと思ってんでしょ?」
「え」
「わかるよ。雛子ちゃんも、日暮里くんのこと、自慢のお兄ちゃんだって言ってたし。良いねえ、仲良しで」
照れたように目を逸らした日暮里が、口元を綻ばせた。
彼の家を初めて訪れたとき、その暖かさと明るさに驚いた。それと同時に、羨ましく思ったものだ。当時の自分が失っていたものを、彼らは守り続けているように見えて。
だが、今は違う。
自分たちも、昔の姿を徐々に取り戻しつつある。そのうち、食卓に笑い声が溢れるだろう。そんな確信があった。サツキもきっと、心の底から笑ってくれる。
「日暮里くんは、良いお兄ちゃんだよ。だから、間違っちゃ駄目だよ」
「……ねえさん」
「家族を大切だって思うその気持ちを、忘れちゃ駄目」
「はい、でも」
のことを慮ったのだろう。日暮里は明るい表情を一転させた。
「ねえさんは、間違ってねえっすよ」
「……え?」
「ずっと、ねえさんが家族のこと考えてたの、俺らは皆知ってます」
思わず無言で、日暮里を見上げる。彼は、が機嫌を損ねたと勘違いしたのか、取り繕うように笑って、俺らに何がわかるんだって話っすよね、すみません、と口走った。
そんなことはない。
首を横に振る。
「ありがと」
日暮里が、嬉しそうに笑った。
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