その日、航の父親が他界した。
重い気持ちのまま体育館に入ったは、マットの上でタンブリングを繰り返す航を見つけて、立ち止まった。
響く着地の音が、航の心の空虚さを表しているようで、切なくなった。
複雑だろう、彼の気持ちは、自分たちには到底計り知ることができないのだ。少なくとも、幼い頃から父親と共に生きてきた自分たちにとって。
遅れてやってきた部員たちもまた、航を見たまま言葉を発することがなかった。
「こういうとき、何て声をかけたら良いんでしょう」
土屋の問いは、全員の問いだ。
後ろにいた部員たちもまた、答えなど持っていない。それでも、自分たちにできることはただ一つだ。仲間だ、と示してやることだけ。お前は一人じゃない、と。
亮介がの肩を叩いて、航に近づいていった。
「ロンダートの膝曲がりすぎ。全然駄目」
航が戸惑ったように亮介を見る。きっと二人の間には、他の人間とは比べ物にならないほどの絆があって、呼吸もある。自分と水沢の間にそれがあるように、あの二人の間にも。
「ったく、一人でコソ練してんじゃねえよ」
「……、俺のタンブリングが、鍵を握ってるからな」
例えば航が今にも泣き出しそうだとして、亮介の笑顔がどれほどの救いになるだろう。
航は、今まで誰も一人にしなかった。誰かが悩んでいると、必ず傍にいて、助けてくれた。ならば、次は自分たちの番だろう。踏み込むことに恐れはあったが、皆それぞれ航に笑いかけた。
「柏木先生」
練習を始めた部員たちを柏木と共に見守っていると、江崎が現れた。
彼女はどこか困惑した表情で、柏木と部員たちを見比べ、言った。
「火野くんの件、聞いてらっしゃいますか?」
唐突な話に、柏木もも、首を傾げることしか出来なかった。
特に何も聞いていない。今日も火野に会ったが、彼はいつもどおり――では、なかった。いつもは無視してもおかしくない言葉に、律儀に答えてくれた。それは、普通の人間ならば良い兆候のはずだが、火野の場合はそうもいかない。あのときの火野の表情を思い出したの心中に、不安が現れる。
「今、職員室に火野くんのお父さんがいらしたんです。転校手続きの件で」
衝撃が襲った。
江崎の言葉など、それきり聞こえなくなって、ただ必死に火野の元へ走る。
「待ってください!」
事務室の先で、火野の声が聞こえた。
「学校まで来て、どういうつもりですか!」
「母さんやお前に任せていては、いつまで経っても先に進まないだろう」
火野の父親の姿は見えなかった。だが、喋り方に聞き覚えがある。いや、火野の父親とは会ったこともない。それでも聞き覚えがあったのは、きっと少し前の自分には、父親の言葉がこんな風に聞こえていたに違いないからだ。
ただ違うのは、火野が必死に父親に抵抗しようとしているところだ。
自分は、ただ黙って耐えるだけだった。
父さんの敷いたレールに乗るのは嫌だと主張する火野とは対照的に、自らレールを求めた。そうすることで、父親に認めてもらおうとしていた。自分の道がないというのは、ひどくもどかしいことだったが、同時に楽なものでもあったのだ。
背を向ける火野の父親。
それを見たまま微動だにしない火野。
そう、こうして父親に絶望されずに済むから。傷つかずに済むから。は二人の様子を見ながら、かつての自分が恐れていたものの姿も見た。
航が火野の父親を追いかけていく。それにつられるように、部員たちもその後を追った。
「……火野くん」
目を見開いたまま部員たちの後姿を見ていた火野が、びくりと震えた。
「どうして」
困惑した様子の火野が、そう呟いた。
その続きはなかったが、は勝手に予測することで、それに答えた。
「皆、火野くんのこと、仲間だと思ってるんだよ」
例え火野が距離を置いていても、それでも。
「行こう」
火野の腕を引っ張った。航が何を思って追いかけていったのかはわからない。だが、彼の言葉を、今聞かなければきっと後悔する。
階段を駆け下りると、火野もそれについてきた。
「火野くんが、私らのことを仲間だとか思ってなくても良い。それでも私たちは、火野くんが頑張ってることを知ってるし、火野くんは男子部の誇りなんだよ」
走りながら伝えると、火野はまた困惑したのか、目を伏せてしまった。
今はまだ伝わらなくても良い。ただ、そのことだけは知っておいてほしかった。火野が思っているほど、世界は冷たくない。顔を上げれば、傍にいてくれる人の姿が見えるということを。
「もう一度、あいつとちゃんと話してくれ! 新体操をやめるなんて、本心で言ってるわけじゃねえんだよ!」
「本心だろう。所詮あいつにとって新体操は、ただの逃げ場所に過ぎな――」
「違う!!」
航の大声に、火野の手がぴくりと動いた。
「あいつは新体操が好きなんだ。逃げ場所なんかじゃねえ。新体操は、あいつが見つけた居場所なんだよ!!」
心を打たれた。
誰もが、新体操に居場所を見つけてきた。自分もまたそのうちの一人だ。
最初は、逃げ場所だった。頑張っている彼らを見て癒され、中途半端な立ち位置であっても、仲間がいることに安心して。家族とも自分とも戦わずに、彼らのもとに逃避して、そのうちに恋焦がれるようになった。本当の意味で、彼らの仲間になりたい、と。
居場所を与えてくれたのは、新体操部の仲間たちだ。
「……あんた、あいつの演技、一度も見たことねえんだろ。明日の大会見に来いよ。あいつがどんな思いで新体操してるか、その目で確かめてみろよ! 親父なら、息子の頑張ってる姿、見てやってくれよ!」
火野は、決して父親への反発だけで新体操をしているわけではない。例えきっかけがそうであったとしても、彼は彼なりに、今、新体操を真剣にやっている。悩んで苦しんで、それでもやめずに、やってきた。一度も逃げることなど、なかったはずだ。
「俺は……俺は、見に来てほしかった。顔見てもうまく喋れねえし、どういう顔していいのかもわかんねえ。だから、試合見せて、これが今の俺なんだって、親父に知ってほしかった!」
涙がこぼれた。航が、どれほどの思いでこの言葉を口にしているのか。
見に来てほしかった人に、もう二度と見てもらえない苦しみ。今、航の胸は、それでいっぱいなのだろう。目に涙をいっぱいにためて、語りかけている。
「あいつだって、本当はあんたに見てほしいんだよ! あんたに認めてもらいてえんだよ!!」
そうだ。
父親に認めてほしくないという子供はいない。
自分がかつて、自ら父親の敷いたレールに乗り、一旦は外れた後もあがいてきたのは、ひとえに父親に認めてほしかったからだ。ただ一言、良くやった、と言われるだけでも十分だった。
今は、違う。父親に認めてもらいたいのは確かだ。だが、自分の選んだ道を進む自分を認めてほしかった。
「お願いします、試合、見に来てやってください!!」
航が頭を下げた。泣きながら、必死に懇願している。
あの、航がだ。
火野は、呆然としていた。どうして自分のために頭を下げているのか、本気でわからないという表情だった。
「火野くん、航はああいう奴なんだよ」
理由など、それで十分だと思う。
だが、彼のまっすぐさは、人を救う。
涙を拭って、去っていく火野の父親の後姿を見送る。伝わっているといい。火野にも、彼の父親にも。
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