ひどく、緊張していた。
演技をするのは自分ではないのに、男子部――いや、女子部の分までの緊張を一気に背負ってしまったような気分だ。
仕事があるので、という理由で選手たちとは別行動しているのだが、どうしても緊張が先走ってしまって、さっきから同じ場所をうろうろと歩き回っているだけの状態だった。
とりあえず落ち着くべきだ。ようやくそう思ったは、壁に寄りかかって、道行く選手たちを眺めた。
彼らは全員、ライバルだ。不安そうな顔をしている選手など、一人もいなかった。それが虚勢にしろ何にしろ、にとっては彼らの自信に溢れた表情が、羨ましくて仕方がないものだ。
そんな中、通り過ぎる一人の選手が目に付いた。見覚えのある派手な色のジャージ。まっすぐと前だけを見つめる視線。
「鶴見くん」
合宿以来の再会だ。鶴見もまた鷲津の一員ではあるが、の中で彼は別格だった。少なくとも彼は、水沢のことを笑いものにしたメンバーでもなかったし、噂に振り回された人間でもなかったようだ。
小さな声で名前を呼ぶと、彼は振り向いた。目が合う。
「どうも」
まさか振り向くとは思っていなかったので、動揺しつつも会釈をする。
彼は一瞬だけ動きを止め、何かを考えるような素振りを見せた後、近寄ってきた。
「こんなところで何やってるんだ?」
「いや、いろいろありまして……鶴見くんは、今からアップですか」
「まあ、そんなところだな」
少なくとも、自分たちの間には険悪な空気などない。仲良くもないが、嫌われてもいないのだろう。
「……」
「……」
ただ、さして会話すべき話題もない。
二人とも沈黙して、はこの状況をどう打破すべきか、考えた。鶴見になれなれしく話しかけても、会話は弾まないだろうし、かといって今日は負けません、などと言っても、一介のマネージャー見習いのような存在に鶴見が張り合うはずもない。
「合宿のときは」
「え、はい」
「うちの奴らが、悪いことをしたな。新体操とは関係ないところで相手を傷つけたのは、悪かった」
「はあ……まあ、鶴見くんが謝ることじゃないですし、というか、私はあいつらを許すつもりもないですけど」
の言葉に、鶴見が小さく息を吐く。
「拓は……私の幼馴染なんですけどね、今はもう気にしてないみたいな顔してますし、木山くんだって、そうですよ。でも、二人とも傷つけられたことには変わらないんです。しかも、故意に、面白がって、傷つけるために、あいつらは拓をからかったから。そういうことをする奴が謝罪してきても、私は信じられないし」
「……そうだな」
「まあ、鶴見くんが航たちをクズだとか言ったことも、忘れてないですけどね」
言葉の選び方がひどいと思う。そう訴えても、鶴見は目を逸らすことなどなかった。
彼は自分なりの信念を持って新体操をしているから、航たちのような人間が新体操をしているだけで我慢ならなかったのかもしれないが、それにしても、ひどい。
「だから、今日の演技を見ててください」
「……」
「あんな格好してるけど、航たちは、あいつらなりに、真剣に新体操と向き合ってるんです」
その信念が相容れなくとも、見ていてほしい。
「本当に新体操を甘く見ていないと言うんなら、今日の演技で、それが本当かどうか、わかるってことか」
「そういうことです」
「素人がどこまで成長したか、楽しみだな」
鶴見は、このレベルに達するまで想像を絶するような努力を積み重ねてきたのだろう。だからこそ、新体操を始めて数ヶ月の素人同然の選手が気に入らないのかもしれない。
それは、努力に裏打ちされたプライドと信念。
彼を打ち負かすのは、相当困難だ。
「鶴見くんの演技も、楽しみにしてます」
「――ああ」
やはり、強い目だ。
出会う場所が違っていれば、自分たちはもっと違う関係を築けていたかもしれない。この目は、新体操に挑む烏森の部員たちと同じ目だ。
気づけば、彼に対する気後れや苦手意識は消えていた。
僅かにある意地のようなものが、彼に頑張れと伝えることだけは踏みとどまらせたが、それでも何か通じ合ったような、そんな気がした。
「先生、火野くんは」
「それが、まだなんです……」
「ってか、木山くんと日暮里くんもいないんですよね。何やってんだろ、あの二人に限って遅刻とかないと思ってたのに」
「あ、火野くん!」
「えっ」
もうすぐ個人競技が始まるというのに、火野の姿が見えない。
本当に棄権するつもりなのだろうか、と柏木と二人でオロオロしていたとき、ようやく火野が現れた。
良かった。本当に火野が来なかったら、どうしようかと思っていた。
「火野くん、頑張って!」
「頑張ってください」
それしか言えない。
火野は戸惑ったようにと柏木を見た後、通り過ぎていった。ここへ来てくれたということは、きっと彼なりに答えを出したのだろう。それならば、自分たちは見送るだけだ。
「ところでさん、木山くんと日暮里くんですけど」
「あ、そうでした! 火野くんの演技まで、まだちょっと時間ありますよね? 私、その辺捜してきます」
「僕が行きましょうか」
「いえ、先生は顧問なので、あいつらについててやってください」
会場を出たは、予想もしていなかったのだ。
まさか、火野の演技どころか、団体の演技にすら間に合わないかもしれないほどのことに、木山たちが巻き込まれているなど。
木山の携帯に電話をかけてみたが、しばらく鳴らしても出てくれなかった。
仕方がないので、会場の周辺を歩き回る。火野の演技に間に合うように帰りたいが、一向に木山たちの姿は見えなかった。
道でも間違えたか、電車でも乗り間違えたか、はたまた困っているおばあちゃんを助けているのか。あの二人は何だかんだお人よしで天然の気があるので、ありえることだと思う。出来れば、事故や事件に巻き込まれていないでほしい。
はらはらしながら、もう一度電話をかけてみる。
今度は、出た。
「あ、もしもし、木山くん? 今どこ? もう火野くんの――え?」
だが、聞こえてきたのは見知らぬ男の声で。
更に、背後が妙に騒がしく、殺伐としているのが手に取るようにわかった。
これは、悪い予感が当たってしまったのかもしれない。
「木山くんなら、今取り込み中なんだよねえ。あんた、こいつの知り合い?」
「えっ……あの、え?」
頭が混乱して、ろくな受け答えが出来なかった。男が笑って、言葉を続ける。それを聞くことしか出来ない。
そんな頭でが思ったことと言えば、
「これは、不良漫画とかでよくあるパターンの奴だ!」
という、それだけだったのだ。
「あの、木山くんは、いますか」
「だから、取り込み中なんだって」
喋る男の声が、不自然に歪む。その直後に、何か激しい音が聞こえて、は察した。恐らく、木山はこの男に殴られるか蹴られるかしているのだ。
どうすべきか。航たちに報告すれば、きっと彼らは飛び出すだろう。だが、木山たちを助けるために暴力を振るってしまったら、出場停止になる。警察に通報すれば、また問題になってしまう。せっかく彼らが真面目に部活をやり始めたのに、それはまずい。しかし、そんなことを言っている場合ではない。
「あの、木山くんと日暮里くんは、何かしたんですか!?」
「いや、別に? 俺らの場所に入ってきたし、ちょっと生意気だったからさ、挨拶の仕方を教えてやってるだけ」
「え、それだけ……? あ、いや、その――」
ふと気づく。話しながら歩いているうちに、会場から離れていた。会場を振り返り、どうすべきか迷う。到底、自分に解決できるような話ではない。
だが、事態はもう抜き差しならないところまで来ていた。
激しい音が、電話を通じて、そして同時に耳に直接飛び込んできたのだ。
「――え?」
恐る恐る電話を耳から離し、辺りを見回す。
自分と同じく携帯を持っていた男が見えた。そして、目が合った瞬間、彼は遠くから見てもわかるほどはっきりと、笑った。
とっさにその場に座り込み、男の視線から逃れる。このまま茂みに隠れて逃げることができないだろうか。の頭の中から、そのときだけ木山と日暮里は綺麗に消え去っていた。
「、逃げろ!!」
「ねえさん、逃げて、早く!!」
そう言われても、足が凍り付いて動かない。座り込んだことで、足はますます重くなっていた。近づいてきた男を見上げ、結局に出来たのは、ごまかすような笑いを浮かべることだけだった。
激しく抵抗したが、男の力は強かった。引きずられるようにして移動し、最終的に木山たちの傍に放り出された。木山と日暮里が、唖然としてその様子を見つめていた。
「逃げろっつったろ……!」
「だって、怖くて、動けなくて……!」
3人で顔を見合わせる。木山と日暮里は顔に怪我を負っていた。もしかすると、どこか痛めたのではないだろうか。二人とも、尋常ではない苦しみようだ。
だが、恐らく二人は、手を出していない。相手が全くの無傷だったし、何より木山と日暮里が一方的にやられるというのは、信じられなかった。
「健気だよねえ、彼氏のために助けに来るなんて」
「かっ、彼氏じゃないし!! 勘違いしないで!」
「……そんなに嫌か」
勢いで立ち上がり、男と対峙する。だが、すぐに自分の今の状況を思い出して、はたじろいだ。流石に、この人数に囲まれては、弱気にならざるを得ない。せめて殴られてもいいから、逃げ出さなければ。そう思っても、突破口などなかった。
結果、がたどり着いたのは、おとなしく頭を下げるという解決策だった。
「お願いします、許してください。あの……大事な大会があるんです! 二人とも、行かなきゃいけないんです! お願いします!」
男たちが顔を見合わせて、笑う。笑われることなど、覚悟の上だ。
木山と日暮里は、呆然としていた。彼らの頭の中には恐らく、耐えるという選択肢しかなかったのだろう。
「時間がないんです、お願い――いっ……!?」
「うっせぇな、知ったことかよ」
突き飛ばされて、転んだ。膝を地面に打ち付けて、すりむいたようだ。徐々に痛みが湧き上がってくる。涙が滲んだが、それを拭うことなく、相手を見上げた。
「大会が何だよ。そんなに大事なら、出られなくしてやろうか」
「やめて……! 木山くん! 日暮里くん!!」
従順な態度というのは、相手をつけあがらせる。
相手は、を突き飛ばした後、木山と日暮里に再び掴みかかった。足が痺れて動けない。やはり耐えるしかない木山と日暮里は、なすがままに殴られていた。
「やめてよ!! 何でそういうことすんの!?」
「面白いからに決まってんじゃん」
「ふざけんな! 何も知らないくせに! 木山くんと日暮里くんがどんだけ頑張ってたか、知らないくせに! やめてよ! やめて!!」
近づこうとすると、違う男に押さえ込まれた。
こんな奴らに、邪魔されてたまるか。この大会は自分たちにとって大事な大会で、ここを乗り越えなければ自分たちに明日はない。
夢、だから。
団体で大会に出ることが、夢だから。だから、木山と日暮里は黙って耐えている。
喉が枯れるほど叫んでも、状況は変わらなかった。
「私らの夢を邪魔する権利とか、あんたらにないんだから!!」
やめて、と再び叫ぼうとした瞬間だった。突然、体が軽くなった。同時に、自分を押さえていた男が、うめき声を上げ、転がった。
「何だ、てめえ。こいつらの仲間か?」
「んなわけねえだろ。何で俺が、こいつらの仲間なんか」
聞き覚えのある声が、背後から聞こえた。瞬きを繰り返すと、涙が零れた。その滲んだ視界に映ったのは――
「サツキ……!」
これは夢か、と思った。
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