「馬鹿じゃねえの」
開口一番、サツキはそう言った。
「さっさと警察呼べば、こういうことにならずに済んだんだろ」
「てめえ」
「サツキ、何で……」
挑んでいた男を軽く避け、見事な足払いを決めたサツキは、倒れた男を冷たい目で見下ろした。
「さっさと逃げたほうが良いと思うけど? 散々この人が叫んだおかげで、騒ぎに気づいた人もいたみたいだし」
「いい加減なこと言ってんじゃねえぞ」
「いい加減じゃねえし。現に俺が来てんじゃん」
「てめ……」
男たちが周囲の状況を窺った後、木山と日暮里を忌々しげに見下ろした。起き上がってサツキを呆然と見つめていた二人の様子は、喧嘩に巻き込まれたのだと語っているようにしか見えなかった。彼らだけが傷だらけになっている以上、男たちが不利なことには変わりない。
結果、彼らは舌打ちだけを残して、鳥居をくぐっていった。
「ねえさん! 大丈夫っすか!? ――っ」
「日暮里くん!? まさか、怪我……」
「へ、平気っすよ、それより木山さんは」
「俺も大したことねえよ」
顔をしかめたまま、二人とも怪我を否定した。だが、日暮里は一人で立ち上がれないようだし、木山も息が荒い。木山が日暮里を支え、立ち上がる。その様子だけ見ても、二人の状態がボロボロだということは、よくわかった。
「それより、ありがとな」
立ち上がった二人が、サツキを見た。
「別に、声が聞こえたから来てみただけだから、気にしなくて良いっすよ」
「お前、素直じゃねえなあ」
「関係ないでしょ。それより、時間ないんじゃないんですか?」
日暮里がからかうように笑うと、サツキはふいと目を逸らしてしまった。
は、まだ信じられなかった。サツキが自分たちを助けてくれたこと。いや、それ以上に、ここに彼がいること。
「木山くん、日暮里くん、先に行って……」
「大丈夫か?」
「うん、私の怪我は大したことないから……」
膝をすりむいた程度だ。そう言うと、二人はよろよろと会場のほうへ向かっていった。やはり、日暮里は足を捻挫しているだろう。ほとんど木山に頼りっきりだった。木山も、隠しているだけで、どこかを怪我していてもおかしくない。
だが、今は。
「サツキ……どうして」
「あいつに言っといて。観に来いって言うくらいなら、正確な時間くらい教えてけって」
「え……?」
よくわからないが、サツキが自分の目を見て話している。それがまた夢のようで、は呆然としたまま、抜け出せなかった。
「あいつらと付き合ううちに、いつか変な怪我して帰ってくんじゃねえかって思ってたけど、やっぱりね。あんまり父さんと母さんに心配かけんなよ」
「……うん」
「何で逃げなかったんだよ。逃げて、誰か呼べばよかったじゃん」
本当に、そうすべきだったと思う。だが、体が動かなかったのも事実なのだ。
それに、もしも警察沙汰になってしまったら、と思ってしまった。木山たちの体を考えれば、すぐにでも誰かに助けを求めるべきだったのに。
「う、動けなくて……」
「だろうと思った」
心底呆れたような表情で、サツキはの前に座り込んだ。
「あのさ」
「うん」
「俺はやっぱり、あん時のあんたの判断は間違ってたと思うよ。あれは単なる同情でしかないと思うし、今思い出しても、ムカつく」
斜め下に視線を落とした彼の表情を見たまま、は動けなくなっていた。
今まさに、サツキが向き合ってくれている。一体どんな心境の変化があったのかは知らないが、彼もまた、答えを出したのだろう。
「馬鹿じゃねえの、ほんとに。俺なんかのために、わざわざ親の期待裏切ってさ。あんときの俺の気持ち、わかるかよ。姉の将来を潰したのが自分だとか、マジで笑い話にもなんねえし。俺は、あんたのことを自慢だって思ってたんだぞ。あんたが父さんに認められることしか考えてないって、他に何の夢もない人間だって知ってても、それでも。俺は、あんたの弟だってことが、幸せだったのに。なのに、俺が、あんたの将来を潰したんだよ」
この気持ちが、わかるかよ。
苦々しげに、サツキはそう語った。
「だから、俺はあんたに嫌われたかった。弟じゃないって言ってほしかった。だったら、自分から遠ざければ良いって思った。実際、俺の期待も裏切ったあんたが許せなくもあったから、それは簡単だったよ。でも、どうして、あんたは――」
俺の姉であり続けたんだ。責めるようなサツキの声音に、の心臓は締め付けられた。
「決まってるでしょ。サツキは――」
あのときから、いや、サツキが弟であると自覚した日からずっと、自分の気持ちの根底に流れ続けているこの気持ち。
今伝えなければ、きっと後悔する。
は、サツキの目を見つめたまま、はっきりと口にした。
「私の大切な弟なんだから。あんたが、私が私立受験するのをやめたことに怒ってるってわかってたから、私は頑張ろうとしたよ。大学こそ良いところに行って、またサツキに認めてもらおうって。また、前みたいに仲良しになりたいって思ってたから」
私にとっては、サツキはずっと、自慢の弟だったんだよ。
あふれ出す涙と共にそう吐き出せば、彼は自嘲するように笑った。何だよそれ、と。
そうして、たっぷりの沈黙の後、サツキは頭を抱えて呻いた。
「ごめん、俺が意地張ってた。姉ちゃんが全部背負い込んでるのを見るのが怖かったから、俺は姉ちゃんから遠ざかろうとしたんだ」
「サツキ……」
サツキの目から、涙が一粒零れ落ちた。
「ずっと怖かったんだ。もしかして、いつか本当に、父さんにも母さんにも、姉ちゃんにも、いなけりゃ良かったって、言われるんじゃないかって。怖くて、俺、もう……」
「そんなことないよ。お父さんもお母さんも、サツキのこと心配してるんだよ。サツキが、自分なんかいなけりゃ良かったって言ったとき、お母さん、泣いてたよ。お父さん、眠れなかったんだよ。私だって……」
「うん、姉ちゃんはあの時、捜しに来てくれたよな。ほんとは、あのときから何となくわかってたんだ」
そのとき、は見た。
いつ以来だろう。弟が見せた、自分に対する純粋な笑顔を。ずっと、冷笑か嘲笑しか見せてくれなかったサツキが、ようやくもとの笑顔を取り戻したのだ。
「姉ちゃんは、ずっと変わってない、俺の自慢の姉だって」
あのときから、毎日のように幼い頃の夢を見るようになった、とサツキは笑う。きっと、あの頃の自分たちも、こうして笑っていた。喧嘩をしても、叱られても、ずっと一緒に。
「むしろ、そんな姉ちゃんに戻してくれたのは、あいつらなのかもな」
サツキが、ポケットの中から、ぐしゃぐしゃになった紙切れを取り出した。よく見れば、この大会の宣伝広告だ。どうして持っているの、と問えば、彼は秘密、と答えた。
「サツキ、あの時は、ごめんね。私も、あの時の判断は間違ってたと思うの。でもね、カラ高に来て、良かったとは思ってる。だって、あいつらに会えたんだもん」
それだけは、胸を張って良かったと言える。あの時、進路を変更せずに私立の高校に進学していたら、自分はきっと、今よりも鬱々としていたのではないだろうか。小さな夢だが、団体で大会に出るという夢を見守ることができる今のほうが、きっと幸せだと思う。
何よりも、強くなれたから。
「あ、時間、大丈夫?」
「あ!! やっば……! 木山くんたち追いかけなきゃ!」
「あの二人、多分ひどい怪我してた。試合、出れんの?」
「わかんないけど……でも、二人とも怪我してたら、人数足りない……」
サツキの手を借りて立ち上がる。膝は痛んだが、歩けないほどではなかった。
「そういえば、サツキ」
「ん?」
「私に嫌ってほしくて、私が新体操部手伝いに行ってることばらしたり、昔好きだった人のアドレス消したりしたの?」
「え? ……いや、それはどっちかというと」
サツキが目を泳がせる。
膝を押さえて歩きながら、は首を傾げた。
「……昔の男も、今のあいつも、姉ちゃんにふさわしくないって思ってたからだよ」
「ん?」
「何でもない! それより、さっさと行けよ!」
背中を押された。
サツキはきっと気づいていないだろう。聞き返したが、実ははっきりと聞き取っていたということに。
は、晴れ晴れとした気持ちで、一歩踏み出した。
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