恐らく、木山と日暮里は怪我をしていたと思う。
 会場内に踏み込みながら、は二人の姿を思い返した。日暮里が足を痛めたのは間違いないだろう。明らかに足を引きずっていて、木山に支えられていた。だが、木山はどうか。一見どこも怪我をしていなかったように見えたが、ダメージはあるだろう。それに、彼ならば、怪我をしていても強がるに違いない。
 だとすれば、今頃彼らは、人数の壁に突き当たっているはずだ。これだけは、努力ではどうにもならない壁だ。1.5点も減点されてしまうのは痛い。
 休憩所の前を通りかかったは、ぶつけた膝の痛みに耐え切れず、足を止めた。痛みは大分ひいてはいるのだが、足を踏み込む瞬間に鈍い痛みが走るのだ。

「――あ」

 すっかり忘れていた。

「火野くん」

 火野の個人演技のことを、忘れていたのだ。そのことを、ぼんやりと座っている火野の姿を見て初めて、思い出した。
 結果はどうだったのだろうか。
 近づくと、彼は目を丸くして立ち上がった。

「どうしたんですか」

 彼にしては珍しい、感情のこもった声だった。

「髪の毛、落ち葉がついてますよ。あと、制服も泥だらけですけど」
「え、やっば……!」
「何かあったんですか」
「いや、いろいろあって転んで」

 嘘ではない。突き飛ばされた、というのが抜けているだけだ。
 火野は驚愕を面に出して、髪の毛についた落ち葉を払ってくれた。どこか彼の表情が清清しく見えるのは、気のせいだろうか。

「あ、そうだ……火野くん!」
「は、はい?」

 もう火野しかいない。
 テーブルに手を置いて、身を乗り出す。目を丸くした火野が、僅かに体を引いた。

「木山くんと日暮里くんが、怪我したかもしれないの! お願い、火野くん、力を貸して!」
「え……」
「お願い! このままじゃ、あいつらの練習が無駄になっちゃうの! お願い!」
「先輩、落ち着いてください」

 落ち着いているつもりだ。だからこそ、冷静に火野の存在を見出した。

「僕は、今まで個人競技の練習しかしてないんです」
「知ってる」
「だったらどうして」

 僕に頼むんですか。
 火野が、苦しそうにそう言った。その表情を見て、確信した。彼は、今までのことを悔いている。その表現が正しいかどうかはわからないが、他のメンバーたちとの間にあえて作ってきた溝を、埋めようかどうか迷っているのだ。
 だが、に言わせれば、溝など大した問題ではない。溝があろうと、向こう側は見える。火野の姿は、ずっと見えていた。壁があったわけではないのだ。

「火野くんが、団体の練習をちゃんと見てたことも、知ってる」

 火野が目を見開いた。

「火野くんなら、覚えてるんじゃないかな」
「……覚えようとして覚えたわけじゃ」
「そんなこと、今はどうでもいいの! お願い、火野くんもわかるでしょ? あいつらは、真剣に新体操やってるの!」

 以前、火野が、彼らは真剣に新体操をやるつもりがない、と言ったことがある。
 今も、そう思っているのだろうか。火野の表情を見つめても、はっきりとした答えは出なかった。

「……でも、僕は」
「もう! じれったいなあ! そうやって悩んでる時点で、火野くんの中でもう答えは出てるってことじゃん! ほら、早く!」
「ちょっ、先輩」

 腕を引っ張る。足が痛んだが、構わず火野を引っ張って歩き続けた。

「あいつらがもし何か言っても、私がねじ伏せる! ってか、あいつらは絶対、火野くんを受け入れてくれる!」

 選手控え室の前まで来て、火野は怯えたように足を止めた。
 この扉を開けるのは、彼だ。

「では、棄権ということでよろしいですね?」

 中から、そんな声が聞こえた。
 火野が目を丸くして、それから唾を飲み込んだ。きっと、今彼は恐怖に打ち勝とうとしている。目の前にある溝を飛び越えようとしているのだ。
 大丈夫だ。向こう側にいる人々は皆、受け入れてくれる。引き寄せてくれる。
 だから思い切って――

「跳べ」

 火野が、ドアを開けた。

「僕が出ます」

 はっきりと、彼はそう告げた。
 後ろから覗くと、呆然とした部員たちの姿が見えた。
 それからは、早かった。我に返った悠太が、選手の交代をお願いしますと係員に告げ、木山の変わりに火野を出場選手登録した。木山が火野にユニフォームを押し付け、日暮里が火野の肩を強く叩いて泣き笑いを見せた。

、お前が火野を連れてきてくれたのか!」
「まあ、無理やりね。でも、ここに入るかどうかを決めたのは、火野くんだよ」

 椅子を引いて座る。膝を見ると、血が滲んでいた。

「大丈夫か?」
「あー、全然平気。問題ない」
「消毒しておくわね」
「ありがとうございます」

 江崎に手当てをされながら、ふと気づく。言わなければならないことがある。

「あ、そういえばさ」

 制服についた泥を払って、は顔を上げた。

「サツキと、仲直りできたよ」

 水沢が瞬きを繰り返す。部員たちが自分を見たまま、動きを止めた。
 無理もない。あれほど関係が悪化していたというのに、仲直りするときは一瞬だったのだ。自分でも、まだ夢なのではないかと疑っているほどだ。

「足が痛いから、夢じゃないと思う」
「良かったじゃねえか!」
「おめでとうございます!」

 口々に祝福してくれる部員たちに、笑い返す。
 ただ、水沢と亮介だけが、彼らとは違う表情を見せていた。亮介は、まるで何もかもわかっていたかのように、笑みを浮かべている。だが、水沢は、いまだに呆然としていた。

「拓?」
「――あ、ああ、ごめん。そっか、ほんと」

 きっと、心配と不安は尽きなかっただろう。仲の良い幼馴染の姉弟が壊れていく様子を、目の当たりにしていたのが、彼なのだ。

「良かった……」

 泣きそうな、それでいて喜びの滲んだ彼の表情を見つめる。

「心配かけて、ごめんね」
「ほんとだよ」
「拓がいなかったら、きっと今の私はなかったと思う。ほんと、ありがと」

 ずっと傍にいてくれた彼に、最大限の愛と、感謝を。
 今日だけは許してほしい。きっと亮介もわかってくれる。
 は、親愛の情をこめて、水沢を抱きしめた。





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