「すみません、隣空いてます?」
空いていた席を見つけて座ってすぐ、声がかけられた。
姉の涙と笑顔を思い出してくすぐったい気持ちになっていたサツキは、我に返って振り返る。そこにいたのは――
「あ」
「あ」
かつて、家出をしたとき、見ず知らずの自分の話を聞いてくれた青年だった。
そういえば、弟が新体操をしていると言っていた。とっさにそこまで考えて、サツキは立ち上がった。
「どうぞ!」
「はは、ありがとう」
隣に座った彼は、君も来てたんだ、と会場を見つめながら言った。
「君、新体操部?」
「いえ、姉が」
「へえ、お姉さん……ん? ってことは、もしかして君たち、仲直りできたってこと?」
仲直り、と改めて言われると照れくさい。頷くと、彼はまるで自分のことのように嬉しそうに、笑った。
「良かったね」
「まあ、そうですね。ところで、そちらは……」
弟のことはどうなったのだ、と聞きたかったが、何となく躊躇してしまった。だが、彼はそれも察したのだろう、今度は彼が照れくさそうに笑った。
「駄目だね。あれから一度も家に帰ってないし。弟も顔を合わせてない。でも、今日は大会があるって聞いたから、練習前に寄ってみたんだけどね……何か、個人競技は終わったっぽいなあ」
間に合わなかった。彼は寂しげにそう言った。
彼もまた、弟のことを心配していたのだろう。向き合おうとして、まずは弟のことを知りに来たのかもしれない。自分も、本来はそうだったのだ。今日の姉の姿を見れば、何かが変わる気がして、来てみた。ところが、思いも寄らないところで姉を発見してしまい、結果があれだ。
ただ、大声で夢だと叫ぶ姉の姿が、眩しいものに見えたのだ。
かつて、自分の自慢だった、誰からも褒められる姉の姿よりも、もっと。そして気づいた。自分が追いかけたかった姉は、きっとああやって誰かのために優しくなれる、そんな姉だったのだ、と。
「君のお姉さんは? どこの高校? 個人? 団体?」
「え、えーと……多分、団体――じゃなくて、えっと、姉は男子部のマネージャーやってるんです。だから、演技はしないですけど」
「へえ、そうなんだ。高校は?」
「烏森です」
そう答えると、彼は目を丸くした。
え、と言われたので、もう一度答える。
「弟も、烏森なんだけど」
「えっ」
「えっ」
二人で顔を見合わせる。
「あの、お名前は……」
「火野、弟は火野哲也って言うんだけど、知らないかな」
「知って……ます。いや、話したこととかはないんですけど、火野先輩は、有名人ですから」
あの男子新体操部に混じっているダイヤモンドのような存在なのだ。背中にJAPANという文字を背負ったその姿が、女子にはひどく眩しく見えるらしく、一年にもファンは存在するのだという。何となく知っていた程度だったが、まさかこんなところで彼の兄に会うとは。
「そっか、哲也は有名人なのか」
そう言った彼が、とても嬉しそうに見えて、サツキは目を細めた。姉の表情と、重なって見えた。
「じゃあ、弟は、君のお姉さんにお世話になってるってことか」
「どうでしょうね。火野先輩は、団体メンバーとは別行動らしいですから」
「うーん、我が弟ながら、いけ好かない奴だな」
そんなことを言っているが、本心ではないのだろう。
彼はひとしきり笑った後、じゃあ団体でも見て行こうかな、と言って座りなおした。烏森の順番は、すぐそこだ。もう鷲津の演技は終わりに近づいている。
ただ、一つだけ気がかりなことがある。
それは、木山と日暮里が怪我をしたことだ。隠そうとしていたらしいが、サツキの目にははっきりと怪我していることがわかった。日暮里は明らかに足を引きずっていたし、木山もまた、頻繁に手首を気にしていた。
一人足りない、と姉が泣きそうな顔で言っていた。
「烏森の新体操部って、どんな感じかな」
「あー……一言で言うと、暑苦しいです」
「え?」
「まあ、それがあいつらの良いところなんでしょうけど」
そんな会話をしている間に、鷲津の演技が終わり、烏森の選手が出てきた。
まだ、あの新体操部を認めたわけではない。姉にふさわしくない場所だと判断したら、容赦なく邪魔してやろう。そんなことを思っていたサツキは、メンバーを目で追って目を丸くした。
「あ」
火野の兄と、声が重なる。
「哲也だ」
どうして、火野が。新体操部の内情に詳しくないサツキにでもわかるほど、火野は団体のメンバーとは距離を置いていたはずだ。
その彼が今、堂々と入場していた。
「……火野先輩が、入ったのか」
木山と日暮里が、ジャージ姿だ。それを見て、やはり彼らの怪我が重かったことを知った。気遣うように二人に声をかけている姉の姿が見えた。それに答えている日暮里が、笑顔を見せていることに気づいた。そういえば、彼は姉のことを、ねえさん、と呼んでいた。それは、どういう意味なのだろうか。もし姉が、自分ではなく、彼のことを弟にふさわしいと思っていたら――
よからぬ妄想にとりつかれそうになっていたサツキは、が客席を見上げたことに気づいて、身を硬くした。
客席を見回した彼女は、まず両親に気づいたのだろう。照れたように笑って、また視線を動かした。何となく、目を逸らせず、そのまま見つめ続けた。必然的に、目が合う。
にこりと笑ったが、ピースサインを見せた。どういう意味なのだろうか。ただ、照れくさかったので手で追い払う仕草をしてやった。
「お姉さん、可愛いね」
「なっ、何言ってるんですか!」
「見たまんまのことを言っただけなんだけど。心配しなくても、変なことは考えてないよ」
姉を可愛いと言われたのは、初めてかもしれない。
頭が良い、とか、出来た姉だ、とか。最近は、似ていない、とか、お前に比べると地味だ、とか。そんなことばかり言われていた。
一人だけ、姉のことを、気持ち悪いほどに可愛いと連呼する男がいたけれど。その男は今、真剣な顔で円陣の中にいた。
全員で気合を入れた後、不安げな顔をしているに、まず水沢が笑いかけた。口の動きでわかる。大丈夫、と言っている。笑っていろ、とも。ぎこちない笑みを浮かべた彼女に続いて声をかけたのは、月森で、彼は真剣な顔のまま、待ってて、と言ったようだった。
マットの外に取り残される、補欠メンバーとマネージャー、顧問に向けて、メンバーたちは頷いて見せた。彼らの間には、切れない絆があるのだと、はっきりとわかった。
「どうかした?」
「いえ」
真剣な目で弟を追っていた火野の兄が、手を握り締めたサツキに気づいたのか、不安げに顔を覗き込んできた。
何故か、緊張する。知っているからだろうか、姉が、彼らが、どれだけこの大会に賭けているかを。姉の泣く姿は見たくない。せっかく見つけた居場所を、ここで終わらせてほしくない。
音楽が流れ始める。
初めて見た彼らの演技は、時に繊細で、時に優雅で、そして、力強かった。新体操は女がするもの、というイメージがあったが、そんなことはもうどうでも良かった。男だろうが、女だろうが、すごい。そう、そんな陳腐な言葉しか出てこないほどに。
これが、彼らの演技なのだ。そう素直に受け入れることが出来た。
さまざまな問題を乗り越えて培ったチームワークが、見えた。
「すげえ……」
「うん、鷲津ほどではないけど」
「その鷲津に勝てないと、駄目なんですか?」
「いや、2位まで関東大会に進めるはずだから……」
現在2位のチームよりも良い得点を出さなければならないのだ。そう説明されて、サツキは順位表に目をやった。
「っていうか、鷲津すげえ」
「うん、鷲津は全国でもトップレベルだからね。恐らく関東大会も突破するだろうって言われてる」
今2位のチームに大差をつけてのトップだ。鷲津の演技は途中からしか見ていないが、確かに烏森に比べると、キレもあったし、演技の技術も高かったように思う。
視線を下に移すと、姉が手を握り合わせて祈っているのが見えた。目はしっかりと閉じられている。他の選手たちも、似たり寄ったりの状態だった。もはや周囲の音など聞こえていないのだろう。固唾を呑んで結果発表を待っているようだった。
そして、そのときはやってきた。
「烏森高等学校、得点――」
会場がシンと静まり返る。
一瞬の間の後、点数板に得点が表示された。
「17.400」
心臓が一度だけ、大きく脈打った。2位の学校の得点と見比べる。
だが、サツキが理解するよりも早く、下にいた選手たちが、大声を上げた。ようやく理解した。彼らは、勝ったのだ。
大喜びする部員たちの中、姉が呆然と立ち尽くしているのが見えた。隣に立っていた木山に肩を叩かれ我に返ったようだ。サツキは見た。姉の目に光った小さな涙の粒を。
安堵したように笑った彼女は、涙を拭って同じくぼんやりとしていた、隣の火野に話しかけた。もちろん、ここまで聞こえるはずもなかったが、火野がそれをきっかけに固かった表情を和らげたのがわかったような気がした。
「どうやら、やっぱりうちの弟は、君のお姉さんにお世話になってるみたいだね」
「……そうですかね」
「うん。ほら、笑ってる。哲也が、烏森で新体操をやってて、良かった」
隣の兄も、安堵したように笑っていた。どうして、兄や姉という存在は、弟のためにこんな表情を出来るのだろうか。自分たち弟は、いつでも越えられない壁を前にして、苦しんでいるというのに。
それでも――自分たちは、そんな彼らを尊敬せざるを得ないのかもしれない。決して越えられないからこそ。
「俺も、姉ちゃんが烏森の新体操部で良かったと思います」
弾けるような笑顔で、喜びを分け合っている姉の姿を見下ろしながら、サツキは心の底から、そう言っていた。
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