「姉ちゃん、風呂入れって――何やってんの?」
夕飯後、インターネットを使っていると、サツキがやってきた。
「ああ、今ね、関東大会に向けて新しい演技を考えてて。柏木先生と一緒に資料集めしてるんだよ」
「へー……」
「柏木先生、すごく頑張ってるから、私も頑張らなきゃ」
動画サイトの映像を覗き込んで、サツキが感心したように頷く。
「よくこんなに跳べるよなあ」
「サツキも出来ると思うよ。皆出来てるし」
「そりゃ、バク転の一回くらい余裕だけど、こんな2回も3回も連続では無理だよ」
どうやってるんだろう、と映像の中の選手たちが飛び跳ねるさまを興味深く見つめているサツキ。この弟ならば、本当に少しの練習でやってのけそうだ。昔から、運動神経が良かった。勉強ももちろん出来るが、勉強しか出来ない自分とは違って、身体能力のほうが優れているのだ。運動部にでも入れば、一気にスターだったかもしれないのに、彼はその道を選ばなかった。
「俺、きついの嫌いだし。あの人たちみたいに、朝から晩まで練習出来ないよ」
「そういうとこは、私にそっくりだね」
「弟だから」
でも、とサツキは言葉を繋ぐ。
「姉ちゃんは、勉強も部活も頑張ってんじゃん。あんま無理すんなよ」
「偉そうに、弟のくせにー」
「別に良いだろ!」
「はいはい、心配してくれてありがとう」
じゃれあっている子供たちを、母が微笑ましそうに見つめていた。
それから数日、と柏木の資料集めは続いた。
柏木は、練習中だけでなく、空いた時間や帰宅後も、いろいろと調べたりまとめたりしてくれているようで、彼が集めた資料はどんどん積みあがっていった。
「先生、すごいですね……」
「ちょっと張り切っちゃいました」
「私、全然集めてないんですけど。どういうのが良いかもわかんなくて」
「さんは、普段の仕事や勉強も忙しいですからね」
「それは先生も同じですけど……」
柏木のモチベーションの高さには、舌を巻く。
確かに自分は、部の仕事や勉強もしているが、柏木にも普段の仕事はある。教師という職業の範疇を越えているようにすら思えるほど、彼は働いているだろう。
ただ、気持ちはわかる。
素人で、演技も出来ない自分たちには、こうして選手たちのフォローをすることしか出来ないのだ。
「今日は、近所のダンススクールに連絡を取ってるんで、行ってきますね」
「は、はあ」
ビデオカメラの準備をしながら、柏木が楽しそうに笑う。
彼は今、充実しているのだろう。
そのとき、職員室のドアがゆっくりと開いた。
「――あ、いた」
「サツキ」
隠れるように入ってきたのは、サツキだった。サツキも航や亮介たちと同じで、職員室という空間が嫌いなのだ。あんな頭をしていれば、教師に目を付けられるのも無理はない。
だが、放課後の職員室に残っていたのは、柏木とだけだった。それを見た彼は、ようやく背筋を伸ばした。
「どうしたの?」
「姉ちゃんと柏木先生に、渡したいものがあって」
「ん?」
自分だけならばともかく、柏木にも渡したいものとは何だろう。
差し出されたファイルを受け取って、中身を取り出す。
「これ……」
「二人とも忙しそうだから、図書館で調べてきた」
図や文字で、新体操の組技や模範演技が解説されていた。恐らく、初心者向けの本をコピーしてきたのだろう。他にも、まだ部員たちが出来ないであろう、少しレベルの高い技を解説した本のコピーなど、とにかく様々なものが入っていた。
「役に立つかどうかはわかんないけど」
「サツキ……」
「くん、ありがとうございます!」
「ありがとう!」
柏木がサツキの手を握り、キラキラとした目で礼を言った。
まさか教師にこんな態度をとられるとは思っていなかったのか、サツキは後ずさる。
「まあ、いろいろ迷惑とか心配とかかけたから、お詫び?」
「そっか」
照れたのだろう。結局サツキは柏木の手を振り払い、顔を背けてしまった。
それでも、柏木との目にあるキラキラとした光は、消えなかったけれど。
「あ、あと、俺もいろいろ映像見たけど、もっと一個一個の精度上げて、全員の息ももっと合わせるようにしたほうがいいと思う。鷲津の演技も見たけど、あれ、正直レベルが違いすぎると思うし。まあ素人の俺が言わなくても、わかってると思うけど!」
言い訳するようにそう言って、サツキは逃げていった。
可愛い弟だ。ずっと持っていたまっすぐな性格を、ようやく表に出すことが出来るようになったのだろう。
「良い弟さんですね」
「でしょう? でも、まさかこんなに調べてくれてたなんて……」
「すごいですよ。これでもっと、柏木スペシャルが充実しますね!」
「そうですね!」
柏木がまとめていた、新体操の演技集。それを、彼は柏木スペシャルと呼んでいた。
それは確かに、スペシャルと呼ばれるだけの情報量があったが、サツキのこのコピーのおかげで、更に情報が充実しそうだ。
サツキのことを、これほど自慢できる弟だと思ったことはない。
柏木が褒めてくれたことで、は更にその思いを募らせた。
「拓―、聞いて聞いて、サツキがねー」
「ん? どうした?」
「柏木先生の資料集め、手伝ってくれたんだよ」
一番喜んでくれるだろう水沢に、サツキのことを伝える。案の定彼は、一瞬驚いた表情を見せた後、素直に笑ってくれた。
「今まで迷惑と心配をかけたからって」
「まあ、迷惑だったかはともかく、心配をかけられたのは事実だしな」
「ね。でもサツキ、ちゃんとわかってたんだよ、皆が心配してくれてたこと」
「特に亮介あたりが、心配してたもんな」
今日は、亮介はいない。日暮里の家に行くから、と言ってさっさと消えてしまった。
最近の亮介には、どこか余裕が出てきたと思う。
サツキのことで悩んでいたは、放っておけばそのままどこかへ消えてしまいそうだった。だから、亮介は必要以上に干渉していたし、出来るだけ傍から離れないようにしていたのだと思う。
だが、今は違う。こうして、あっさりとを水沢に任せて、航たちと遊びに行ったりしてしまう。
「そういえば、亮介はに秘密にしてるみたいだけどさ」
「え、何が?」
「サツキに、県大会に来いって言ったの、亮介なんだよ」
「……え?」
知らなかった。
亮介もサツキも、一言もそんなことは言わなかったのだ。
「サツキも、亮介のことはいまだに嫌いみたいだけどさ、認めてもいるんだろ」
「……そうかな」
「そう思っとこう」
「そうだね」
もしかすると、今日のサツキの行動は、亮介への借りを返すため、だったのかもしれない。もちろん、新体操部全体へのお詫びの気持ちもあったのだろうが、心の底には、亮介の存在があったということも、考えられる。
「私、周りの人にすごく恵まれてるなあ」
「お互い様だよ、俺たちも」
今日は自分から亮介にメールをして、たまには好きだと自分から伝えてあげよう。
そう、思った。
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