サツキの言葉は頭の片隅にありはしたが、今日も熱心に指導してくれるコーチを見ていると、やはり杞憂にしか感じられなかった。
部員たちも相変わらず一生懸命練習していて、その姿を見ていると、何とか集めた資料のことは忘れられた。
「私、お金払ってくるね」
そう言い残して、部室を出た。
部員たちは今日の復習に夢中になっていたので、邪魔することは出来なかった。
薄暗くなった渡り廊下を歩いて、体育館へ向かう。体育館からは、僅かに明かりが漏れていた。扉を開き、中を覗く。
コーチは、そこにいた。
「あの……」
ハッとした。
横顔が見えたのだ。それは、光の加減だったのかも知れない。だが、その表情はどこか冷たく、酷薄なものだった。
マットを見つめていた彼の目は、いつも部員たちの練習を見ているときの暖かなものではなく――
「ああ、どうかした?」
「あ、あの、お金……えっと」
思わずしどろもどろになってしまった。
が、振り返った彼の表情は、いつものような穏やかなものだったのだ。
気のせいだろうか。
「いつもありがとうございます」
「いや、皆の飲み込みが早くて、教えてるこっちも楽しいよ」
指導料の入った封筒を差し出し、領収書に記入してもらう。
やはり、いい人だ。余計なことなど考えなくてもいい。
ただ、一方で、サツキの言葉が頭の中をぐるぐると回り続けているのも事実。何故サツキがあんなことを言ったのか、何となくわかったかもしれない。彼は、コーチの中にある、あのような表情をしてしまうような一面を敏感に感じ取ったのだろう。
領収書を受け取って、もう一度頭を下げた後、逃げるように体育館を出る。
「ちゃーん、帰りますよー」
「あ、亮介」
「あ、いたいた。今日はまっすぐ帰るから、一緒にかーえろ」
領収書を握り締めて、亮介に駆け寄る。
張り詰めていた緊張の糸が、一気に緩んだ。
「それ、そんなぐしゃぐしゃにして良いのかよ」
「え? あっ、しまった」
皺の寄った領収書を慌てて伸ばす。コーチの書いた字を見つめながら、小さく息を吐き出した。
ただ過敏になってしまっただけだ。
誰にでも、人には見せない一面というものがある。それは自分にも亮介にも存在していて、だがそれを巧妙に隠しているだけだ。コーチにもそれがあったというだけ。そうであっても、彼が普段熱心に指導してくれているということには変わりないのだから、気にするべきではないだろう。
「何かあった?」
「いや、別に」
帰り道、ふと会話が途切れた瞬間に、亮介が顔を覗き込んできた。
思わずのけぞって、愛想笑いを浮かべる。
「なーんか、怪しい」
「そんなことないって」
「はすぐ隠すからなー。ほんとに何もない? ってか、俺にも話せないこと?」
何かあったとき、心配をかけないように隠し事をしがちになってしまうのは認める。亮介は純粋に心配してくれているのだ。それに、表に出さないように気をつけていたのに、彼は気づいてくれたのだ。
「いや、ほんとに何でもないんだけどね」
「うん」
「ちょっと、気になっちゃってさ。サツキがね、コーチを初めて見たときにね、何か嫌な感じがしたって言ってて。でもさ、コーチはいつも熱心に教えてくれてるから、それは勘違いだよって私は言ってたの」
亮介が一瞬だけ眉を吊り上げて、それから無理に笑ったように見えた。
彼にとっては、そんな話はまさにサツキの妄想でしかないだろう。
「でもさ、さっきお金を渡しに行ったときにね、何かコーチが怖い顔してるの見ちゃって。ちょっとびっくりして、それでサツキの言ってたことってそういうことだったのかなーって」
「なるほど」
怖い顔、というのは少し語弊があるかもしれない。
普段自分たちの笑いかけてくれる人が、怖い顔をすることはもちろんある。航や亮介が、何か気に入らないことがあったときに見せる、威嚇するような表情が、それだ。
だが、あの時見たコーチの表情は、それとは少し違うようにも思えたのだ。
そう、残酷で、温かみなどないかのような。
「そう考えると、ちょっとコーチのことが怖くなっちゃって」
「いや、でもさ、それは勘違いだろ」
「まあ、うん」
亮介は、あの表情を見ていないからわからないのだ。だが、だからといって責めるつもりもない。
歯切れの悪い言い方をするを見て、亮介は僅かに苛立ちを覚えたようだった。
仕方がない。彼はコーチのことを信じ込んでいるから。いや、自分も信じてはいるのだ。ただ違和感がどうしても消えないだけで。
「は」
「うん」
「ずっと教えてもらってる俺らと、一回しか見たことない弟のこと、どっちのこと信じるの」
「……何それ」
そんな話をしているわけではない。
誰も部員たちのことを信じていないとは言っていないのに。
ただ、気にするなと言ってほしかっただけ。贅沢を言えば、何があっても守ってやる、と言われたかったのかもしれない。そうすればきっと、違和感などあってないようなものになっていたはずなのだ。
「私は別に、コーチのこと信じてないわけじゃないんだって。すごく熱心に教えてくれてるんだから」
「だったら、気にしなきゃいいだろ」
「わかってるよ。そもそも、気にしないつもりだったのに、話させたのは亮介なんだから」
「俺は、お前が何か元気ないから心配して」
こんな言い合いをしてどうなるのだ。
「もう良いよ。大丈夫だから、気にしないで」
「は、ちょっ」
これ以上話しても、無駄だ。
意識的に笑って、家の敷地内に踏み込む。
引きとめようとした亮介が、一瞬の躊躇いの後、無言で頷いた。
「じゃあね」
「おう」
やはり話さないほうが良かったのだ。
自分の中に押し込めて、気にしないようにしていれば良かった。そうすれば、亮介とこんな微妙な雰囲気で別れずに済んだのだから。
いつものように習慣的に手を振って、亮介を見送る。
彼の笑顔も、かつてのようなつくり笑顔に見えた。
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