勘違いだ、と自分を納得させれば良い。
 そう思っていたが、なかなか上手く行かなかった。サツキに先入観のようなものを植え付けられていたからだろうか。それがコーチに対して失礼だとわかっているから、もちろん顔には出さないようにしていたが、つい注意深く顔色を窺ってしまうようになってしまった。
 だが、やはり彼はいつも熱心で、穏やかで、にこやかに指導をしてくれている。
 たった一度、イメージとは違う表情を見てしまったからといって、距離を置いてしまうのは失礼だ。
 勘違いしないでほしい。自分は、このコーチを信頼していないわけではない。信頼しているからこそ、あれは勘違いだ、気にすることではない、と自分に言い聞かせているのだ。
 それに、妙なことを言って、部員たちを不快な気持ちにさせたくない。昨夜、亮介が見せた作り笑いが、どうしても頭から離れなかった。

 練習を見ているが、上の空であることは一目見ただけでわかった。
 いつもは真剣に演技を見つめている目に、力がない。まだ昨日言っていたことを気にしているのだろうか。
 彼女には悪いが、ただの勘違いだとしか思えない。少し言い方が違うかもしれないが、被害妄想にも似た、勘違い。何より、彼女にそんな考えを植え付けたのが、コーチを一度しか見たことがないという弟だったということが気に食わない。
 どっちを信じるのか、と尋ねたときの彼女の顔が、忘れられない。
 きっと傷つけてしまったのだ。だから、謝ろうと思った。だが、それをする前に、彼女は逃げるように家の中に入っていってしまったから、無理だった。

「亮介、大丈夫か?」
「え? あ、あー、平気平気。わり、ちょっとぼんやりしてた」
「そんなぼんやりしてっと、日暮里にメンバー奪われっぞ」

 一通りの演技を終えて話し合っているときに、ぼんやりとしてしまった。
 顔を上げると、彼らの表情は一様に真剣で、上の空だったことが申し訳なくなった。彼らも、の話を聞けば、勘違いだと笑うだろう。
 気を取り直して、演技の確認に入る。そのときだった。
 背後で、ガタン、と激しい音がした。いや、それほど激しくはなかったのかもしれないが、それまで張り詰めていた空気を乱すには十分な音だった。
 全員が振り返る。

「ご、ごめんなさい……! ちょっと考えことしてたら、驚いてしまって、その、本当にすみません!」

 がコーチに謝っていた。
 土屋が心配そうに彼女を見つめていた。コーチはというと、にこやかにをとりなしていた。

「いや、後ろからいきなり声をかけたのが悪かったんだよ。驚かせて悪かったね」
「ほんとに、すみません……」

 どうやら、机に向かって部費の計算をしていたに、コーチが何か頼もうとして声をかけたらしかった。だが、は必要以上に驚いて、結果コーチに失礼な態度になってしまった、ということだろう。
 必死に謝っている彼女を見て、僅かに感じたのは、苛立ちだったのかもしれない。
 まだ悩んでいたのか。いや、悩んで解決するのならば、いくらでも悩めばいい。だが、それでコーチ相手にそんな態度をとってしまうことになるのは、間違っているだろうに。

「あいつ、どうしたんだ? 水沢」
「いや、俺もわからないけど……具合でも悪いのかな」
「あ、亮介?」

 マットから降りて、のほうへ向かう。それに気づいて顔を上げた彼女は、泣きそうな顔をしていた。

「ちょっと来い」
「……った、亮介」
「良いから」

 無理やり体育館の外へ連れ出した。あのままでは、彼女は他のメンバーを心配させるばかりで、逆に練習の邪魔になる。

「お前さ、まだ考えてんの?」
「……」
「解決すんなら、納得するまで考えりゃいいけどさ、あの態度はないだろ」

 わざとではないのだろう、本当に、純粋に驚いただけなのかもしれない。
 それでも、その後の謝り方には異常なものを感じた。

「……ごめん」
「いや、謝れって言ってんじゃなくて。そんなにコーチのこと信用できねえんなら、離れてたほうが良いんじゃねえの?」
「でも」
「部室にでも隠れてりゃ良いじゃん。お前がああいう態度取ってるから、あいつらも心配するし、集中できないし」

 言い過ぎている、とは思った。だが、止まらなかった。
 俯いてしまった彼女が、肩を震わせる。これでは、彼女を怯えさせているのは自分だ。ただ追い詰めているだけだ。

「邪魔して、ごめん」
「いや、邪魔とか言ってねえだろ。だから、気になるなら無理して一緒にいることはないっつってんの。事務作業なら、部室でも出来るだろ。わざわざ体育館にいなくても――」

 が涙を零した。
 言い過ぎた。
 今の言い方では、お前は体育館にいなくて良い、と言ったようなものだ。

「部室、行く」
「あっ、――違う、今のは」

 引き止めたかったが、走り出した彼女は止まらなかった。

「しまった……」

 頭を抱えて座り込む。完全に彼女を傷つけた。
 もっとフォローしてやるべきだったかもしれない。苛立ちに任せて、彼女の言い分など聞かずに、言い過ぎてしまった。

、どうかしたのか」
「あ、いや……ちょっと、俺が言い過ぎた」

 部費用のノートを持った木山が、近寄ってきた。が逃げ出したのを見たのだろう。

「良いのか、追わなくて」
「まあ、部室に行くって言ってたし? 今は俺も頭冷やしたいし。わり、木山、代わりにの様子見てやって? あいつ今、俺の顔とか見たくないと思うし」

 が走り去った方向を見た木山が、目を細める。眉間に皺が寄って、その瞬間だけ、人相が凶悪になった。まるで、お前のせいだろ、と糾弾されているかのような気分になる。

「本当に良いのか?」
「何が」
「弱ってるところに付け込んで、女に言い寄るのは、お前の常套手段だろ」

 一瞬、その言葉の意味がわからなかった。
 立ち上がって、首を傾げる。
 そして、気づいてしまった。

「え、ちょっと木山? お前、え? のこと……」
「冗談だ」
「木山の冗談は冗談に聞こえないんだって! やっぱ駄目、行くなよ!? 俺以外の奴に泣き顔とか見せられるわけないし! というわけで、部室は立ち入り禁止!」

 木山を体育館のほうに押し戻す。
 だが、自分が部室へ行くことも出来なかった。きっと今は、お互いに上手く行かない時期なのだ。
 そう思い込んで、何とかの泣き顔を忘れようとした。

 ――無理だった。


「亮介、、浅倉さんたちと帰るって。何かあったのか?」
「え、いや、まあ……」

 水沢が、誰もいない隙を見計らって、のことを尋ねてきた。
 は、水沢には何も話していないのだろうか。いつも、何かあったら真っ先に彼に泣きつく彼女が、珍しい。
 仕方がない。自分の手には余る。真剣に向き合おうとすればするほど、どうしていいかがわからなくなる。
 水沢に、全てを話した。その間、彼は一言も口を利かず、表情も変えなかった。

「勘違いだと思うよな?」
「うん。勘違いだろ」
「だろ? だから、悩み過ぎだって思ってて。で、つい言い過ぎて、そしたら泣いちゃって、どうすればいいのよ、これ」

 水沢は、の予感をあっさりと勘違いだと斬って捨てた。部員の誰に聞いても、きっと同じような返事をするだろう。

「俺、明日、葵ちゃんたちにボッコボコにされる気がするんだけど。水沢、助けてくれる?」
「無理。でも、は浅倉さんたちには何も言わないんじゃないかな。言ったら亮介が怒られるってわかってるだろうし」
「いや、でも……ああ、もう。俺が泣きたい」

 好きな女の子を泣かせて平気でいられるような男ではない。
 が、言い返してくれればよかったのに、彼女は何も言わずじっと耐えていたのだ。あの時の彼女の心境を考えるだけで、胸が痛む。
 今こそ抱きしめて謝って慰めてやりたいところなのに、あいにく彼女はいないのだ。
 これほどつらいことはない。
 深くため息を吐き出して、亮介は痛む胸を押さえるのだった。




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