朝早くの部室に入ると、が黙々と作業をしていた。思わず硬直した。
 まさか、昨日の今日で、しかも心の準備など何もない朝一番で二人きりの状況に陥るとは思わなかったのだ。
 顔を上げたが、亮介を見て一瞬だけ動きを止めた。そうして。

「亮介、おはよう」

 にこやかに挨拶をした。
 もう機嫌は直ったのだろうか。忘れてしまったのだろうか。

「お、おー、早いな、何やってんの?」
「最近こっちの道具使ってないから、手入れしておこうって思って」

 個人競技用の道具を綺麗に磨いているの隣に、ゆっくりと座る。
 あまり眠れずに、早く家を出てしまったのがあだとなった。はそれきり何も言わないし、となると沈黙が痛いし、どうしていいかがわからない。

「あ、あのさ、ちゃん?」
「ん?」
「その、あーっと、その」

 とにかく、昨日傷つけてしまったことは謝らなければならないだろう。が、言葉が出てこない。
 道具を置いた彼女が、丸い目で見つめてくる。だが、その目にはいつものような明るい色はなかった。彼女は決して忘れたわけではないのだ。きっと、忘れた振りでもしなければ、練習に支障が出るから何食わぬ顔をしているだけで。
 結局、どう言って良いかがわからず、無言で抱き寄せた。

「……亮介」
「いや、あの、ほら、昨日――」
「放して」

 弁解するような自分の口調とは対照的に、はっきりと拒絶するような彼女の口調。
 それから、乱暴に押しのけられた。

「ごめん、私、正直言って、今は亮介と一緒にいたくない」
「――え」
「別に、コーチのこと、警戒しろとか言いたかったわけじゃないのに。私だって、信じてたからサツキの言葉も忘れようとしてたのに」

 再び、の目に涙が滲んだ。
 結局、ついさっきの自分の行動が、ごまかしにしか見えなかったわけか。

「私、亮介なら、守ってくれるって、思ってたのに」

 はっきりとした失望を叩きつけられた。
 思わず言葉も、動きもなくして、を見つめる。
 立ち上がって、部室を出て行く彼女を、呆然と目で追うことしか出来なかった。

「うわ、!?」
先輩っ?」

 ズルズルとベンチから滑り落ちて、地面に手をついて項垂れる。
 入れ替わりで入ってきた航たちが、そんな亮介とを見比べた。

「……もう俺、恋なんて無理」
「亮介が……壊れた」
「あの亮介さんが……」
「重症ですね」

 がいなければ、何の意味もない。
 仲間としても、彼女としても、友人としても、彼女がいなければ、自分の世界に何の意味もないのだ。
 もはや、世界は色をなくしていた。



「なるほど……そんなことが」
「だからさん、昨日あんなに驚いてたんですね。異常だとは思ってましたが」

 結局、部員全員に、事の次第を報告しなければならなくなった。これでは朝練は中止だ。
 ただ、練習とは、新体操部全員が揃って意味を成すものであり、誰か一人が欠けては集中できないものだ。だから、がいない今、きっとどれだけ練習しようとしても、誰もが集中力を欠くだろう。
 それなのに、自分は昨日、彼女に大変なことを言ってしまった。
 体育館にいる必要はない、と言われた彼女は、どんな気持ちだっただろうか。考えずともわかる。わかってやるべきだったのに、傷つけた。

「まあ、コーチの件は勘違いだとしてもなあ」
「なあ?」
「ねえ……」

 全員の視線が、亮介に突き刺さる。

「いや、だから! 俺はあれでも気遣ったつもりではあんの! あのままを体育館に置いてたら、あいつ落ち着かないだろうし! まあ、言い方はかなりまずかったし、イライラしてたのも本当だけど」

 言い訳に意味はない。
 守るべきだったのだ。
 コーチの件は勘違いだと思うが、彼女が気にしているのならば、もっと真剣に話を聞いてやるべきだった。その上で気遣えば、もっと違う意味に受け取ってもらえたかもしれない。

「もう無理……どうしていいかマジでわかんね」
「亮介、頑張れよ」
「いや、無理だって。にはもっとこう、ふさわしい奴がいるんじゃないかとか思い始めた。木山とか」
「何で木山……」

 名前を出された木山が、目を丸くして後ずさる。

「いっそ日暮里とかでも良いんじゃね?」
「亮介さん……ねえさんは、俺にはちょっと荷が重すぎます」
「じゃあ火野とか?」
「月森さんがそう言うなら」
「!?」

 慌てて顔を上げると、冗談です、と冷静に返された。
 人の傷口に塩を塗りこむような真似をして、火野は呆れたように肩をすくめる。
 これでわかった。誰も自分の味方をしてくれないのだ。

「謝りたいけど、もう何から謝っていいのか」
「とにかく、一個ずつ説明するしかないんじゃないか」
「でも、、俺とは一緒にいたくないって」

 八方塞というか、どうにも障害が多すぎる。
 行き詰った部員たちの目は、自然と水沢に向かっていた。

「いや、俺を見られても……流石に、今回みたいなことは、初めてだし」
「そこを何とか!」
「無理だって。だっては、亮介に守ってほしかったんだから。俺じゃないんだよ」

 宥めることは出来ても、解決することは出来ない。
 水沢は困ったようにそう言った。
 誰もが困っている。このメンバーでは、あまりにも女心に疎すぎる。男同士のように、ぶつかり合って解決する問題でもなかった。
 そもそも、これは間違いなく亮介自身の問題であって、部員たちは巻き込まれているだけなのだ。亮介自身がどうにかするしか、道はない。
 考え込んでいた火野が、最後に言った。

「時の流れが解決してくれますよ、きっと」
「あまりにも他力本願ですけど、大丈夫なんでしょうか」
「別に、僕たちはさんと月森さんが別れても、大して困らないでしょ。だったら、問題はコーチの件だけです。とりあえず関東大会まで我慢してもらえば良いんじゃないですかね。もちろん、さんがコーチに対して普通に接することが出来るまで、僕たちが精一杯フォローするということで」

 あまりにももっともすぎる意見に、思わず部員全員が頷いた。

「今、聞き捨てならないこと言ったよな、火野……」
「そうですか? 気のせいですよ」
「そうそう、気のせいですよ」
「土屋まで……!」

 コーチの件に、恋愛沙汰まで織り込むからややこしくなったのだ。
 ならば、恋愛沙汰のほうは亮介が自力で解決し、コーチの件は時間に任せる。それだけで十分だ。火野はそう言っているだけ。あまりにも当然のことだ。

「じゃあ、コーチの件に関しては、俺がを宥めておくから。あとは頑張れ、亮介」
「俺には何の解決にもなってないんですけど!?」

 そんな訴えも空しく、仲間たちは皆、今回ばかりは亮介を見捨てて部室を出て行ったのだった。




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