水沢に、コーチのことは気にしないように、と言われた。
わかっている。本当に、コーチを嫌っているわけではないのだから。普通に喋るだけならば、何の問題もないはずだ。それに、水沢にまでそう言われたことで、ますます心配をかけたくない、迷惑をかけたくない、と思い始めた。
亮介が、言った。
事務作業なら体育館にいなくても、と。
彼にとっては、何気ない問題解決策だったのだろう。だが、深読みした自分は、ひどく傷ついた。自分は、体育館にいなくても良いのだ、と。いる必要さえもないのだ、と。
ずっと思っていた。素人の自分がいても、何の意味もないのではないか。何の役に立てるかどうか、必死に悩んで、ここまでやってきた。だが、ここに来て不安が爆発したのだろう。
もう、悩むのにも疲れたかもしれない。
「柏木がJリーガー?」
何とか放課後の練習には出たが、ずっと部室にこもりきりだった。誰も、何も言わなかった。
柏木は、本当はサッカーのコーチをやりたいのだと言う。航が聞いたらしい。
部活はやったことがない、と言っていたが、どうやら自分の過去を隠したいがための嘘だったようだ。航の話をぼんやりと聞きながら、は柏木の笑顔を思い出した。
本当にサッカーのコーチがやりたいとしても、柏木はあれほど一生懸命に資料を集めてくれた。役に立ちたいという一心で、素人の自分には何もわからない、と言いながら。
その資料の存在を表に出さず、柏木は笑っていたのだ。専門の指導者がいればそれでいい、と。自分の努力や苦労については語らず、悔しさを押し殺したのだろう。部員たちは、わかっていない。
柏木の代わりを江崎に頼んで、柏木には好きなことをやってもらおう、と部員たちが言っている。それは本当に、優しさなのだろうか。柏木は、そんなことを望んでいるのだろうか。
「、行こう」
水沢に声をかけられて、我に返る。
今、自分の胸の中には醜い感情しかない。
「私、行きたくない」
「え?」
「柏木先生じゃなきゃ、意味ない。皆は違うかもしれないけど。皆は、顧問は柏木先生じゃなくても、代わりなんていくらでもいるって思ってるかもしれないけど」
部員たちは、一言もそんなことを言っていない。
だが、今のには、柏木がまるで自分と同じ境遇にいるかのように思えて仕方がないのだ。
「私も、受験勉強に専念したい」
「……?」
「許してくれるよね。だって、私も柏木先生も、素人で、いても何にもならなくて、頑張って資料集めても、意味ないし。代わりなんて、いくらでもいるし……いなくても、変わんない」
何の役にも立たない。
実際に演技が出来る部員たち、新体操の知識でサポートできる土屋。それに比べて、自分の存在の何と儚いこと。今まで何の役に立っただろうか。ただ、この場所に置いてもらっていただけだ。顧問という役職のあった柏木よりも、ひどい。
涙が零れる前に、部室を出た。
部員たちが、どんな表情をしていたかさえ、わからなかった。
新体操部は、もはや崩壊の危機といっていいところまで来ていた。
が去り、柏木はコーチを殴り。今まで突っ走りがちな部員たちをフォローしていた二人の存在が、揃って狂ってしまった。
亮介が蹴飛ばした机を一瞥して、水沢は様々なことに思いを馳せる。
柏木の思い、そしての悩み。
どちらにも、気づけなかった。
「あんな柏木、初めて見たな……」
「まさか、殴るなんてな……」
柏木は、いつも誰よりも傍で、支えてくれていた。顧問がいなければ部活の存続が難しい、という理由で、航が無理やり引きずり込んだ形だった。だが、いつの間にか彼はかけがえのない存在になっていたのだ。
きっと悩みもたくさんあっただろうし、影でフォローに苦心していただろう。それなのに、ずっと笑顔だった。どんなときも笑顔で、励ましてくれた。
わかっていたつもりだった。
だが、結果的に柏木はコーチを殴り、教職の継続さえ危うくなっているかもしれない。
「さんが言ってた嫌な感じ、当たってたんですね」
彼女が、コーチの裏の顔をはっきりと予感していたとは思えない。彼女自身、勘違いだと思おうとしていたのだから。
だが、今となっては、彼女の話を聞いてやらなかったことに対する後悔しかない。
特に、亮介はそうだろう。
膝に額をつけて、顔を上げようとしない。
「ずっと、悩んでたのかな」
「全然気づけなかった」
「あいつは、そういう奴だろ。悩んでても、顔には出さない」
柏木も、も同じだ。
きっと心の奥には葛藤があって、闇が広がっていて。
それでも、それを部員に気づかせないよう、ずっと笑っていた。
後悔など、何の意味もない。今更、や柏木の笑顔の意味に気づいても、遅いのだから。
「先生」
職員室から出た江崎は、呼び止められて立ち止まった。
「あなた、確かさんの」
「弟です。あの、俺聞いちゃって、柏木先生が顧問を先生に頼んでるところ」
「……そう」
「本当は、柏木先生にお願いしたかったんですけど」
待っていたのだろう。の弟であるサツキが、そこにいた。
昨日、柏木がコーチを殴った場面に、彼女はいなかった。いつも真っ先に部員たちの暴走を止めるはずの彼女が、いなかったのだ。いつでも一緒に行動しているというのに。
「あの、これ……」
「何かしら」
「うちの姉が、昨日からずっと、部屋から出てこなくて。一応事情は何とか聞きだしたんですけど、俺が直接口出しするのもどうかと思うんで」
受け取ったのは、一冊のノート。可愛らしいキャラクターもののノートで、どう見ても勉強のために使っているものではなかった。
「実は、姉が部屋を出た隙に勝手に持ち出したものなんですけど、読んでみてください」
「私が?」
「先生に、お任せします」
「ちょっと」
読んでみろ、と言われても。
中を覗くと、どうやら軽い日記のようなものらしかった。毎日つけているわけではなく、ただ気づいたことをメモ程度に残したものであるようだ。
ただ、数ページに目を通した後、江崎は、が何故あの場所にいなかったのか、何となくその思いを読み取ってしまった。
今日は、託されるものが多すぎる。
軽い疲労感とともに、そう思った。
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