徐々に、黒い雲は彼らの心に広がりつつあった。
だがそれは、恐らく本人たちでさえ気づいていないほど薄いもので、今はまだ、あってないようなものだ。
「航、覚えたの?」
「あ、おう」
高く跳ぶ練習をしている金子を見つめている航の肩を叩く。
振り返った彼の眉間に皺が刻まれているのはいつものことだから、気にしない。だが、他の部員たちに苦々しげな表情が広がっているのを見ると、胸騒ぎを覚える。
恐らく彼らは、無意識のうちに苛立っているのだろう。その苛立ちを、有り余る前向きさでかき消しているだけであって、そのうち苛立ちが前向きさを越えてしまったら、どうなるかはわからない。
「今日は真面目に勉強してるね。どうしたの?」
「俺はいつでも真面目だろうが」
「嘘だぁ。これはもしかして、奈都子さんに叱られましたか?」
「ばっ、そ、そんなことねえよ!!」
航は否定したが、昨夜、航が奈都子に叱られたことは、亮介に聞いて既に知っている。
「はい、これ。歴史の教科書、大事なとこに線引いたから。ここだけでも覚えてね」
「おう、サンキュ」
結局、航のために付きっ切りで勉強を見てやることになってしまった。彼と机を並べて勉強している自分を客観的に見て、時折笑い出したくなることもある。
「私、やっぱりおかしいなあって思うんだよね」
「何がだよ」
「こうやって、航と仲良くしてることとか? 一日一回くらい思うんだよね。前の私らだったら絶対にありえなかったなって」
「一日一回って、多すぎだろ……」
一日一回、そう思っては、一人笑っている自分がいる。
おかしい、と言ったが、どちらかというと嬉しさが勝っているのかもしれない。こうやって仲良くなるまで、様々な障害を乗り越えてきた。それはつまり、航も、自分も、全員が大きく変わったということだ。
以前の自分と、今日の自分。較べてみると、明らかに今の自分のほうが好きだ。
そう思えるようになったことが、何よりも嬉しい。
と、そこまで考えて、はある一つのことに気づいた。
「そっか、金子くん……」
金子が矢代を新体操部に誘った理由だ。今まではずっと、幼馴染との再会に浮かれているだけかと思っていた。だが、恐らく違う。
変わってしまった矢代を見て、最も衝撃を受けたのは、他ならぬ金子に違いない。
だからこそ、彼は矢代を新体操部に誘ったのだろう。
この場所には、荒んだ心を和らげるだけの何かがあるから。
必死に教科書とにらみ合っている航の横顔を見ながら、は微笑んだ。
「1853年……」
帰り道では、一生懸命年号を覚えようとしている航の声と、それをからかう部員たちの声ばかりが響いていた。航にとっては、切羽詰ったこの状況。だが、にはこの光景が、微笑ましいものにしか見えなかった。
最後尾を歩きながら、航の間違いを一つずつ正していく。容赦ない訂正の嵐が、部員たちの目には恐ろしいものに映ったのだろう。誰かが、鬼教師だ、と呟いた。
そんな時のことだ。
火野に突っかかる航の向こうに、見覚えのあるジャージが見えて、は立ち止まった。
「あ、鶴見くんだ」
そう呟くと、部員たちはいっせいに、前方からやってきた鷲津の部員たちを振り返った。
犬猿の仲とはこのことか、と他人事のように思う。そう思うにとっても、鷲津は敵でしかない。彼らが自分たちを馬鹿にし、水沢を傷つけたことは、絶対に忘れてやらない。
「こんなときに部活より勉強に力を入れるとは、ずいぶん余裕だな」
「うるせえよ」
「部活にばっかり力入れて、人としての何かが欠けてる誰かさんよりはマシだと思うけど」
ボソリと呟いた台詞は、波の音にかき消されて届かなかったようだ。ただし、前に立っていた日暮里が、怯えたように振り返ったが。
それにしても、鷲津の部員たちは相変わらず自信満々な目をしている。その筆頭が鶴見であり、彼はまっすぐに悠太を見つめ、言った。
「竹中。県大会は、いい演技だった」
鶴見が面と向かって烏森を褒めたのは初めてだ。部員たちの知らないところで、何度か言葉を交わしたことがあるが、彼は例えマネージャー相手であろうと一歩も退かなかったのだ。その姿に、彼の新体操選手としてのプライドを見たような気がして、は不思議と、鶴見だけには嫌悪感を覚えなくなっていた。
「ただ、関東大会は、あれじゃ通用しない」
「ああ。俺たちも、通用するとは思ってないよ」
「すげー技練習してっからよ、覚悟しとけよ!」
きっと、鶴見たちにとっては、烏森はまだまだライバルと認めるにはあまりにも小さな存在なのだろう。彼らの表情は、全く変わることがなかった。
それでも、鶴見は褒めてくれた。最低限の演技ができるようになった、という意味だったのかもしれないが、頑なに認めようとしなかったあの頃とは、確実に違っている。向き合おうとしてくれている。そう思えるほどに。
去ろうとしている鶴見を見つめていると、偶然目が合った。お互いに、一瞬だけ動きを止めた。恐らくどちらも、何か言葉を発しようとしたのだろう。自分と同様、鶴見の口が少しだけ動きかけたのが見えた。
結局、首を僅かに傾けて、笑う。愛想笑いではないが、特に意味のある笑顔でもない。顔見知りの人間と、街で偶然出くわしたときのような、中途半端な表情だった。
彼は、僅かに目を見開いた後、何事もなかったかのように前を向き、去っていった。
鷲津の部員たちを見送る。亮介などは持っていた木の棒を追いかけるように投げ捨てたが、彼らは一度も振り返らずに走っていった。
他校の選手たちの姿を見ると、闘争心が湧いてくるのだろう。部員たちの姿を見回して、はくすりと笑った。
だが、気づく。金子一人が、浮かない顔をしていた。
彼はまだ、ジャンプを成功させられていない。3週間後とはいえ、かかるプレッシャーは並々ではないだろう。ますます追い込まれてしまうと、彼自身の選手生命にさえ関わるかもしれない。
「あのさ、亮介」
他の部員とも別れた後、は亮介の袖を引っ張った。携帯の画面を見ていた亮介が、視線をこちらに向ける。
「あんまり、金子くんを追い込まないほうがいいんじゃないかな?」
「追い込むって?」
「ジャンプ。まだ全然跳べてないけどさ、金子くんが一番悩んでるだろうし」
「あー、そういうことか。まあ、そりゃそうだろうけど、でも3週間後は大会だろ? 組み技入れた全体練習もしてねえし、正直やばいだろ」
恐らく、金子がいつまで経っても進歩しないことで、部員たちも苛立っている。あまり顔には出していないが、不安になってしまうのは誰もが同じだ。
「まあ、そうだけど……。でも、あんまりプレッシャーかけすぎないようにね。適度にね」
「プレッシャーかけてるつもりはないけど?」
「あんたらはそう思ってても、金子くんにはプレッシャーなの。一番頑張ってるのは金子くんなんだから」
「頑張ってるっつっても、全然進歩してねえじゃん」
やはり、不満が表に出た。
今はまだ、本人に面と向かって言わない程度には理性が残っているらしいが、そのうち爆発するかもしれない。特に亮介あたりは、誰よりも気が短いので特に、だ。
「支えてあげようよ、金子くんのこと」
「はいはい」
「もう、わかってんの?」
「わかってるって。っていうか、もう既に何十回も支えて、腕とか筋肉痛なんですけどー」
ふざけたように発せられた言葉に思わず苦笑する。
その支えるじゃない、と言いながら、差し出された手を掴んだ。
「まあでも、亮介たちも頑張ってるもんね」
「そうそう。ってことで、ちゃん、俺と」
「あ、サツキだ」
「!?」
亮介がよからぬことを考えていることに気づいて、先手を打った。
ただ、もちろんサツキなどいるはずはなく。あの弟のことがどうやら苦手らしい亮介は、すぐに周囲をきょろきょろと見回した。
「うっそでーす」
「お前……それ、ひどくね?」
「だって亮介、何かこう……目がやらしい」
「――!? ひっど!! 否定はしねえけど!」
「否定してよ!」
仕返し、と言って笑う亮介の背中を叩く。
じゃれあいながら帰路を辿る二人は、まだ知らなかった。
もう既に、この日常が崩れ始めていたことを。
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