息ができなくなった。
視界が暗くなり、音も聞こえなくなり、そして、指先まで冷たくなった。
「――」
水沢に名前を呼ばれて、大きく息を吸い込んだ。視界は続いて白くなり、それからようやく水沢の顔が見えた。
彼の深刻そうな表情を見て、我を取り戻した。
「大丈夫か?」
「あ、うん、大丈夫だよ。すぐ疑いも晴れるって。亮介がそんなことするわけないし」
笑ってはみたものの、涙が溢れそうになって、慌てて水沢から顔を背けた。
亮介が強盗事件を起こした、というニュースが飛び込んできた。昨夜、サラリーマンが襲われ、現金を奪われた。その現場に、亮介の生徒手帳が落ちていたというのだ。
新体操部の人間は、誰も信じていない。大会前のこの時期に、問題になるような真似などするはずがない。というよりも、亮介がそんなことをするような人間ではないということは、彼らが一番知っているのだから。
だが、地獄は教室に広がっていた。
「月森が?」
「そう、昨日の夜」
ドア越しでさえ聞こえる、容赦のない噂話。亮介自身も、新体操部員も登校していないからこそ、彼らは興味本位で様々な憶測を交えながら、面白おかしく語る。
何も知らないくせに。
怒りが頭をもたげ、ドアを開けようとした体勢のまま、動けなくなった。
亮介がどれだけ真剣に部活をやっているか、どれだけ変わったのか、何も知らないくせに。
後ろから、水沢が肩を叩いてくれた。慰めるようなその手つきに答えるように、意識的に笑う。だが、このドアを開ける勇気はなかった。
「……!」
「ごめん」
水沢の手を振り払うようにして、逃げ出してしまった。
追いかけるように呼ばれた名前が、廊下に空しく響いた。
本当は、ここにいて、亮介の無実を主張しなければならなかったのかもしれない。そうすることで、彼を守らなければならなかった、そうも思う。だが、知っているのだ。噂話の真偽など、広めている人間にとっては意味を持たないのだ、ということを。どれだけ主張しても、彼らはそれすら歪めて、自らが楽しむためだけに広めていく。
「――っ、むかつく、むかつく……っ!」
怒りと、悔しさと、情けなさが混じって、頭が混乱している。
屋上に飛び込んで、置いてあった空き缶を思い切り踏み潰した。何度も何度も、足が痛むのも構わず、力をこめて空き缶を踏みつける。
「馬鹿、馬鹿、ばか!!」
衝動は続いて、放置されていた雑誌に向かった。無造作に掴みあげて、それを全力で地面に叩きつける。
「なんで、どうして……!」
最後に、空に向かって叫んだ。
「あ――!!!」
これほど大きな声を出したのは、いつ以来だろう。腹の底から、声が裏返るのも構わず、叫んだ。
変われた、と思っていた。ずっと自分の気持ちを押し殺して生きてきた自分から、脱却できたと思っていた。
だが、大切な人が苦しめられているときに、何もできなかった。たった一言、あの場に踏み込んで、亮介はそんなことしない、と言ってやるだけでよかったはずなのに。あの場所で何も言えなかったかわりに、ここで物に当たっている自分が、本当に情けなく思える。
「むかつく、ほんと、馬鹿……! なんで、信じてるって、やってないって、言えなかったの!?」
物に当たっているのは、噂話に興じ、亮介がやったと信じ込んでいるクラスメートたちに対する怒りをぶつけるためではない。
何も言えずに逃げてきた自分の情けなさを、刻み付けるためだ。
「私は、亮介のこと、信じてるの」
「――よかった」
呟くように発した言葉が、拾われた。
後ろから抱きしめられたのは、振り向くよりも先。嗅ぎなれた微かな香りが、鼻をくすぐる。
「俺のこと、怒ってんのかと思った」
「……亮介」
髪の毛が頬に当たる。妙にくすぐったいのは、彼が震えているからだろうか。
「が、あんな荒れてんの初めて見たから、俺に怒ってんのかって」
「違うよ」
「叫んでただろ」
「全部聞いてたの?」
「聞こえた」
亮介は顔を伏せていて、その表情はわからなかった。くぐもった低い声が、滲んでいるような気がして、まわされた腕を撫でる。
「私、皆に、何も言えなかったから。亮介がそんなことするわけないって、私が一番に言ってやらなきゃいけなかったのに。逃げてきちゃった」
「俺のことで、お前が傷つく必要ねえよ」
「駄目。傷つくよ」
「なんで」
無理に体を動かして、亮介と向き合った。
助けを求めるような目だ。眉間の皺が、今日は悲しい。
「亮介のこと、好きだもん。好きな人が悪く言われてたら、傷つくよ」
「……はいっつもそうじゃん。俺のことだけじゃなくて、水沢ん時も、土屋ん時も。全部、泣いてた」
「涙もろいから」
「泣き虫って言うんじゃね?」
目の端に滲んだ涙を、親指で拭われた。
冷たい感触が、余計に悲しくさせる。
「ほんと、俺とつきあい始めてから、ってさ、泣いてばっかりじゃん? 皆がお前に心配かけてるけど、やっぱ俺が一番、泣かせてる気がする」
「今回のは、亮介のせいじゃないよ」
「俺のせいだろ。俺がこんなんじゃなかったら、絶対、こんな疑われなかっただろうし」
「……でも、亮介が亮介じゃなかったら、私は亮介のこと、好きにならなかったよ」
だからこそ、悲しい。
亮介のことを想う気持ちよりも、傷ついた自分から逃げたいと願う気持ちのほうが大きかったようで。
「好きなのに、守ってあげられなくて、ごめんね」
「それはこっちの台詞」
まるで、お互いの心の傷を埋めあうように、強く抱きしめた。
信じてる、と囁くと、ゆっくりと頭を撫でられた。その暖かな感覚に身を任せ、目を閉じる。
「ほんと、お前ら皆、お人よし」
「ん?」
「あいつらも、俺のこと信じるって。なんかもう……」
すげー嬉しかった。
掠れた声でそう言って、彼は目を細めた。涙が一筋、流れ落ちた。
「仲間だからね」
「ああ」
「それに私は、亮介の彼女だもん」
少しでも気持ちを晴らそうと、無理に笑ってみせる。
亮介もまた、同じことを考えたようで、泣きながら笑う。涙を手の甲で強く拭って、彼はいつもより僅かに高く聞こえる声で言った。
「じゃあ、慰めのちゅーしてくれる?」
その言葉が終わる前に、頬に唇を寄せた。
ほんの一瞬だったが、涙の味がしたように感じた。
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