「あ、木山くん、おはよう」
今日の朝練も中止になった。苛立っているのは、疲れのせいでもある。悠太はそう考えたらしい。
朝早くに登校して、昨日できなかった数学の課題を片付けていると、木山が登校してきた。
「まだ皆来てないよ。やっぱり疲れてたのかな」
「そうかもな。……それより、月森は」
「うーん、全然駄目だね。メールも電話も無視。落ち着くまで様子見ってとこかなあ」
わざと明るく言ってみたが、流石に無視されたのには堪えた。
ウザイ、という彼の言葉は本心だったのだろう。確かに、自分は少し、彼に対してしつこくしすぎた。彼の苦しみに気づかないまま、無責任なことを言ってしまったかもしれない。
木山は、反応に困ったようだ。目を泳がせて、結局言葉が見つからなかったのか、そのまま雑誌を開いた。
ポケットから、音楽プレーヤーを取り出す。徐々に生徒たちが登校し始め、教室が騒がしくなりつつあった。いまだに教室の雰囲気が重苦しいような気がして、はたびたび、こうして音楽の世界に入り込む。少なくとも、妙な噂話で心を乱されることなく、勉強に集中することができる。
教室に入ると、木山とが既に登校していた。
相変わらずだ。木山は漫画を読んでいて、は必死にペンを走らせている。朝練が休みの日には、いつも早く来て勉強している。その場合、大抵は音楽を聴いていて、自分の存在にさえ気づいてくれないのだ。
だが、今日はそれがありがたかった。
何故あんなことを言ってしまったのか、わからない。恐らく、目の前に彼女がいたからだ。そこにいたのが他の誰であっても、同じような理不尽なことを言って傷つけていただろう。
ただ、どうにもならない現実を前に、必死に縋ってこようとする彼女が、僅かに煩わしく感じたのも事実だ。もちろん、傷つけたくなどなかった。後悔しかない。それでも、謝る気にもなれなかった。全てにおいて、面倒になってしまった。
「月森」
気づけば、傍に木山がいた。
「うわ、何」
「いや……のことなんだが」
「何、あいつから何か聞いたわけ? っていうか俺、謝る気ないから」
ないのではなく、怖くて謝れないのだ。昨夜、電話もメールも無視してしまった。どんどん取り返しのつかない方向に進んでいくうちに、ますます怖くなった。
ちらりとのほうを見ると、彼女は全く気づいていないのか、やはりペンを動かしていた。いや、気づいていないのではなく、もう愛想をつかされてしまったのかもしれない。
「でもさー、あいつもさー、何か木山にだけは懐いてるみたいだし? 俺なんかより断然木山のほうが頼りになるし? いっそ木山があいつと――」
開いていた携帯を奪われた。
見上げれば、鬼のような形相をした木山と目が合った。何かを言い返そうと口を開いたが、その瞬間に胸倉をつかまれた。
「本気で言ってんのか」
「……何でそんな怒るわけ。大体、木山には関係ねえよ。俺があいつに何言おうと」
木山の拳が握り締められた。
別に殴られてもいいが、恐らく殴ることはできないはずだ。木山から目を背けて、わざと舌打ちをしてみせた。彼を挑発して、いっそ殴られてしまいたい。そうすれば、目が覚めるだろうか。
「月森……」
唸るように呼ばれた名前。そうして、胸倉を掴む手に、更に力がこもったのがわかった。
だが、続いて違う方向に体が引っ張られた。
「何やってんの、木山くんっ!!」
木山の腕を、横からが思い切り引っ張ったのだ。彼女は驚愕を満面に表していて、必死に木山を押しのけようとしている。
まただ。
彼女はどこまで、自分の味方をしてくれるのだろう。木山が怒ったわけを聞いても、変わらず庇ってくれるのだろうか。そう考えると、やるせなく、また情けなく思った。
「亮介、大丈夫?」
彼女の目には、純粋な光があった。仲直りするため、恩を売るため、そんな計算はまったく感じられない。純粋に、助けに入ってくれたのだろう。
だが、やはりその純粋さが、鼻についた。こんな時でなければ、抱きしめたいほどに嬉しい。いや、今でも、そのまま抱きしめてしまいたかった。何かが邪魔して、以前のように素直な気持ちで彼女に接することができなくなっているのだ。
結果、出てきたのはやはり冷たい言葉だった。
「馬鹿じゃねえの」
どうして、距離を置こうとしないのだろう。
あれだけひどいことを言われても、まだ味方でいる、などと言うのだろうか。
「何で俺のほう庇ってんの? どう考えても木山に非はねえだろうが。つーかお前ら、ほんっとウゼェ」
「月森、お前……」
木山の表情が、怒りを通り越して呆れへと変わった。一方で、は俯いたまま、ぴくりとも動かない。
あの時と同じだ。航が新体操部に入部して、一人だけ置いてけぼりにされたと感じていた頃と。
また失望させてしまった。はっきりと、それがわかった。もう取り返しがつかないほどに傷つけてしまったことも。それらは、微動だにしない彼女の様子を見れば、一目瞭然――と、思っていたのだが。
不意に、胸倉が掴まれた。
「……っざけんなよ」
掴んだのは、紛れもなくだ。両手でシャツが掴まれ、一瞬だけ体が浮き上がった。
「あんたが今つらい状況なのはわかってるけどね、その態度はないんじゃないの!? 私に八つ当たりすんのは別にいいけどね、木山くんにまで何その態度!! ほんっとむかつく! どうせあれでしょ? またあれなんでしょ? 変に自虐モードに入って、私に突き放されたいとか思ってんでしょ? そうなったほうがこれ以上私のこと傷つけなくていいから、とかちょっとかっこつけてんでしょ!? マ、ジ、で、むかつく!! 私言ったよね? 言いましたよね? あんたのこと、信じてるって言ったよね!? こっちはね、八つ当たりされようが、ウザイって言われようが、何されようが、あんたの味方でいるって決めたんだよ! 独りよがりのあんたと一緒にしないでくれる? あんたの今までの彼女と一緒にしないでくれる? 私なめんな、次やったら全力で殴るからな!」
思考回路が凍結した。
自分の今までの感情など、すっかり消え去って、ただ残ったのは驚きのみ。ぽかんと口を開けて、相手に呑まれたのは、初めてかもしれない。それも、女の子相手に。
「おい、お前ら、何やってんだよ!」
「……!?」
教室に入ってきた航たちが、慌てて駆け寄ってきた。
教室にいたクラスメートたちの視線が痛い。恐らく彼らも、彼女がこれほどの剣幕で捲くし立てたのを見たのは初めてだったのだろう。
航に肩を叩かれたのをきっかけに、はパッと亮介の胸倉を掴んでいた手を離した。
体中の力が抜ける。
「おい、」
「さん、何が」
「うるさい、ちょっと黙ってて」
「……は、はい」
は、航たちには目もくれず、ただ亮介を睨み続けていた。
「いい? したいならいくらでも八つ当たりしてもいいけど、いくら八つ当たりしようが、無駄だからね」
「……」
「返事は?」
言葉が出てこない。亮介はただ、ガクガクと首を何度も縦に振った。
彼女の台詞の意味など、ほとんど頭に入ってこなかった。だが、それでもわかることが一つ。
彼女は、本当に自分を守ろうとしてくれているのだ、と。
その姿は、本当に、ウザイと言われても仕方がないと思えるほど一方的で。
「……亮介。をあんなに怒らせたのは、俺とサツキくらいだからな」
水沢のそんな言葉も右から左へ抜けていったが、ただのあの言葉だけは、頭に残っていた。
「――あんたの味方でいるって、決めたんだよ」
満足げに席へ戻っていく彼女の後姿を見ながら、亮介は深く息を吐き出した。
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