「あー……やっちゃったよ」

 昼休み、は屋上のソファに座って空を見上げていた。以前は頻繁にここへ来ていた航たちも、最近では教室に居場所ができたからか、ほとんど顔を出さなくなった。以前より、鬱屈も少なくなったのだろう。
 亮介に苛立ちを覚えたのは事実だ。だが、ああやって怒鳴る必要はなかったはずだ。
 我に返ってみると、とてつもなく恥ずかしかった。
 ガクリとうなだれて、ため息を吐き出す。ちょうどその時、屋上の扉が開く音がしたので、ゆっくりと振り返った。

「あ」

 扉を後ろ手で閉めた体勢のまま、亮介が無表情で立っていた。
 二人の間に、気まずい沈黙が流れた。これからも亮介にはつきまとってやる、と宣言したはいいものの、冷静になってみると、嫌な思いをさせてしまったようで、気まずい。
 彼は、無言のままゆっくりと近寄ってくると、隣にぞんざいな態度で座った。

「……お前さ」
「あ、ん?」

 低い声だった。
 何か、難しい話でも始めるのか。まさか別れ話でもされたらどうしよう。そんなことを考えてしまって、背筋を伸ばす。
 が、彼が発した台詞は、何の脈絡もないものだった。

「今まで付き合ったやつって、どんな男だった?」
「……は? いや、別に、普通だけど。あ、田中くんとか」
「田中……って、お前の前の席のやつじゃん」
「うん。最近はほとんど喋らないけどね。昔は仲良かったから」

 淡々と続く会話。

「何で? 何で喋んないの」
「いや、あんたのせいでしょ。あんたが私んとこに来るから、誰も近寄れないのよ」
「あー、なるほどね。まあ意図的だったけど」

 特に起伏のある喋り方でもなく、高くもなく、低くもない。
 更に言うと、二人の間には明らかな隙間があった。普段は、亮介のほうからもう少し距離を詰めてくる。

「……俺でいいわけ?」
「うん」
「こんなんだけど」
「知ってる。でも、亮介じゃないと、駄目」
「ふうん……」

 そのときになって、ようやく亮介の顔を見上げた。彼は、眉間に皺を寄せたまま、顔を伏せる。どこか泣きそうな顔をしているようにも見えて、すぐに目を逸らしてしまった。

「重いよね」
「は?」
「私、今まで、真面目に付き合ったことなかったし、加減がわかんないんだよね。重いよね、ウザイって言われるのも、わかるよ」

 あの言葉には、ひどく傷ついた。だが、同時に納得もしてしまったのだ。今まで調子に乗りすぎていたのだ、と。

「でも、ごめんね。亮介が、もう本気で私と別れたいって言うまで、やめない」
「……」
「本気になったら、言ってね。この指環も、返すから」

 今は、絶対に外してやらない。
 あの日、亮介に指環をプレゼントされ、薬指に通してもらったとき、今までにないほどの喜びを感じたのだ。この指環は、ずっと心の支えだった。
 亮介は、再び口をつぐんだ後、しばらくして立ち上がった。
 何も言わず、屋上を出て行く。
 今はただ、待ち続けよう。今までどおりに、笑いかけてあげよう。それだけを考えて、見送った。


 それからも、亮介の素っ気ない態度は変わることはなかった。だが、徐々に落ち着いてはきたようで、忌々しげな目つきを見せることは少なくなった。
 そして、その日の放課後。

さん、黒のマジックどこに片付けました?」
「ん? あれ、えーっとねえ、あっ、ほら、ここ」

 部活前に部室に顔を出すと、そこには金子だけがいた。
 テーブルの上には、白いTシャツが広げられていた。

「金子くん、それ」
「はい、孝ちゃんにもそろそろTシャツをと思って!」
「……あー、そっか」

 見学には来ているが、入部するつもりがあるのかどうかもわからない。何よりも、今は部員たちが疑心暗鬼に囚われていて、矢代が入部できるような空気ではない。それでも、金子は矢代を入部させるつもりらしい。

「金子くん……あの、本当に申し訳ないんだけど……矢代くんのことは、疑いが晴れてからでもいいんじゃないかな。今はほら、皆気が立ってるし。私は金子くんが信じたいって言うなら、信じてあげたいけど……」

 きっと、亮介や水沢ならば、もっときつく反対していただろう。彼らの言い方には遠慮がないので、金子は恐らくひどく傷つく。だから、彼らに反対される前に、自分が諭してやれれば、と思ったのだ。

「孝ちゃんは、やってません。そんな悪い人じゃないんです」
「いや、そうだけど……」

 金子が信じているのならば、自分も信じてやりたいと思う。だが、正直な気持ちを言えば、やはり矢代の入部は許すべきではないだろう。証拠はないといっても、誰もが矢代が一連の事件を起こしたと思っているのだから。これ以上、部活の雰囲気を悪くしたくなかった。
 だが、金子はキッとを見据えて、言った。

さんだって、水沢くんのこと、信じてるじゃないですか」

 それは、何よりも重い言葉だった。

「水沢くんが孤立したときも、一人だけずっと信じてたじゃないですか。皆が水沢くんから距離を置いてたときも、月森くんと喧嘩してまで、ずっと」

 反論できなかった。
 それどころか、金子の気持ちが痛いほどにわかって、胸が締め付けられた。

「僕は、孝ちゃんが変われるって信じてるんです。皆さんが、変わったみたいに」

 変わった。
 自分も含めて、誰もが大きく変わったのだ。

「……金子くん」
「僕は、信じてるんです……」

 この言葉を、矢代に叩きつけてやりたい。
 こうして、誰かに信じてもらえることが、どれだけ素晴らしいことか。変わってしまったという矢代に、何があったのかは知らない。だが、こうやって信じてくれる誰かの存在を見ず、更にその存在を踏みにじるような真似をした矢代を、許せない。

「そっか」
さん……」
「矢代くんは、どうして気づかないんだろうね。こんなにいい友達がいるのにさ。今の言葉、録音して聞かせてやりたいくらいだよ」

 矢代のことは、信じられない。だが、金子が信じるというのならば、その気持ちは大切にしてやりたい。
 解決策は全く見出せていないし、事態は全く改善されていない。
 それでも、彼のこの一途な思いを知れただけでも、ずいぶんと救われた気がした。

「あ、私も着替えなきゃ。じゃあ、金子くん、頑張ってね」
「はい、ありがとうございます!」

 綺麗に文字を書いていた金子が、顔を上げて笑った。彼のこんな笑顔を、もうずいぶんと見ていなかったような気がして、ハッとした。
 金子の思いが、矢代にもいつか伝わる日が来るだろうか。
 そんなことを考えながらドアノブを捻ると、外側から勢いよくドアが開き、体が引っ張られた。

「う、わっ」
「!」

 ぶつかった相手を見上げれば、亮介が目を丸くしていた。

「あ、悪い。大丈夫か?」
「あ、うん」

 一歩下がる。一緒にいた日暮里と木山が、固唾を呑んで二人の様子を見守っていた。
 やはり亮介の雰囲気は、これまでに較べると格段に柔らかくなっている。少しは落ち着いたというのは勘違いではなかったようだ。意識して今までどおりの態度で接し続けていたのが、効いたのかもしれない。とは言っても、会話数は確実に減ったので、喧嘩しているようなものなのだが。

「あ、やば、着替えなきゃ。どいてどいて、女子部の部室が閉められちゃう」

 亮介の体を押しのけて、すれ違う。
 だが、駆け出そうとした瞬間、背後から腕が引っ張られた。

「わ」


 二三度その場で足踏みして立ち止まる。
 今、名前を呼ばれた。昨日から、一度も名前を呼ばれていないことに、気づかないほど馬鹿ではなかった。いつかまた名前を呼んでくれる日が来る、と望んでいたが、まさかそれが今だとは、全く思っていなかった。
 振り返ると、亮介は口を何度か閉じたり開いたりした後、腕を離した。

「今日、一緒に帰ろう」

 どんな心境の変化だ。
 まずそれを思ったが、きっと亮介も、いろいろと考えて妥協点を見つけ出したのだろう。まだいろいろとわだかまりは残っているが、時間がそれを流してくれるかもしれない。
 その日への第一歩が、今だ。

「……うん、待ってる」

 亮介は、泣きそうな顔をして、笑った。





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