「一緒に帰ろう」

 そう言われて、きっと亮介は機嫌を直したのだ、と思ったものの。

「……違うかもしれない」

 部活が終わって、女子部の部室で着替えていたは、言いようのない不安に襲われて座り込んだ。それまで明るく談笑していた葵たちが、その様子を見て、慌てて駆け寄ってくる。

、どうしたの? 具合悪い?」
「あ、いや……具合は悪くないけど、ちょっと」
「え、どうしたの? あっ、そっか、月森と喧嘩してるから……」
「いや、喧嘩っていうか、まあ喧嘩かもしれないけど、うーん……」

 喧嘩と言うには、少しおかしな状況かもしれない。
 頭を抱えて深く息を吐き出すと、彼女らは皆顔を見合わせた。

「亮介に、一緒に帰ろうって言われたんだけど……」
「何、普通に仲直りしてるじゃない」
「や、違うの! 仲直りっていうか! まだしてないんだけど! 私は亮介がやっと元に戻ったのかなーって思ってたんだけど、本当は別れ話とかされるのかもしれないって思ったら、怖くなって!」

 考えてみれば、亮介は何も語っていないのだ。ただ一緒に帰ろうと言っただけで、その理由を聞いていない。機嫌を直したからなのか、それとも改めて話をしようと考えたからなのか。
 考えれば考えるほど怖くなって、泣きそうになる。

「元気出しなよ」
「そうだよ、ちゃん」

 ついには女子部の他のメンバーまで集まってきて、慰められた。

ならもっといい人見つけられるって」
「そうそう、何も月森じゃなくてもさあ。まだ水沢のほうがいいんじゃない?」
「そういえば田中がさー、が月森と喧嘩して別れたら、もう一回告白してみようかなーって言ってたらしいよ」
「あいつとは何日で別れたんだっけ? 一週間?」
「……一週間と三日で飽きられたよ。って、そうじゃなくて!」

 飽きられたという話はどうでもいい。友人としては上手く付き合えていたが、恋人としては上手く付き合えなかったというだけ。そんな昔のことは今関係ない。

「亮介じゃないと意味ないもん」
「はいはい。結局は、何だかんだ月森のことが大好きだもんねー」
「面倒見がいいっていうか、人がいいっていうか」

 のろけだ、と無理やり話を終わらせられた。
 かなり真剣に悩んでいるのだが、誰もわかってくれなかったようだ。結局、はため息を一つ残して、部室を出た。
 本当に別れたくなったら言って、と確かに言ったが、いざそうなるかもしれないと思うと、恐ろしい。部室の前に立って、最悪の事態を想像してみた。息が詰まって、心臓が縮こまり、足に力が入らなくなった。大きく息を吸ったが、いつもより吸えていない気がして、余計に息苦しくなる。
 これが、恐怖か。
 震える手で、ドアノブを掴んだ。それから、数秒。思い切って、ドアを開けた。

「……ん、今メールしようと思ってたとこ」
「あ、うん、ごめん、遅くなって」

 開いていた携帯を掲げた亮介が、柔らかく笑って手招きをした。
 その笑顔に、安心を与えられた。最悪の予想は、予想でしかなかったようだ。判断するには早すぎるが、少なくとも悪い話をするような雰囲気ではない。

「あ、皆は?」
「もう帰ったし」
「そっか、ごめん」
「何で謝んの。女の子の準備が遅いのは普通だろ」

 隣を指定されたので、おずおずと隣に座る。
 あまりにも普通に話している亮介の存在が、逆に不安を煽った。一度は収まった不安が、また徐々に膨れ上がってくる。

「今日さ、部活始まる前、お前いなかったじゃん? あん時、あ、他のやつから聞いたかもしれないけど、金子がさ、何であんなに矢代に執着すんのか、話してくれたんだよ」
「――あ、私も、皆が来る前に聞いた。金子くん、矢代くんが昔みたいに戻れるって、信じてるって」
「そ。俺さ、それ聞いたとき、マジで自分が情けなくなって。上手く言えないけど、金子がそんなこと考えてるって、全然気づかなかったのが、馬鹿みたいだし」

 そう、金子のその思いを知ったとき、確かに恥じた。
 今まで、自分たちも散々問題を起こして、その中で成長し、変わってきたというのに、そのことを忘れていたのだ。自分たちのことを棚に上げて、矢代を批判していた。
 人は変われる、ということを誰よりも知っているのは、他でもない自分たちだというのに。

「あと、の気持ちにも気づけてなかったし」
「ん?」
「お前はずっと、金子みたいに、俺のこと信じてくれてたんだよな。ウザイとか言って、ごめん」

 うなだれたのか、頭を下げたのか。顔を伏せた亮介の肩に触れると、彼はゆっくりと顔を上げた。

「私、これからもウザイよ。女版航みたいになっちゃうかも」
「既にそうなってるけど」
「え、ひどい。でも、それでもいいの? 実際ウザイって思っちゃったくらい、ウザかったんでしょ?」

 正直に言うと、あの言葉はもはやトラウマと言っても過言ではない。亮介も追い詰められていたとはいえ、忘れられるようなものではなかった。
 もし、これから先、同じようなことになったら。その時、また同じことを言われないとは限らない。

「俺は、に付きまとわれて惚れこんだ男ですから?」
「もともと付きまとってたのはあんたでしょ」
「じゃあお互い様ってことで。大丈夫、もう絶対ああいうこと言わねえから。約束する」

 小指を絡めて、亮介の目を見つめる。

「重くない?」
「今まで付き合ってきた子よりは、ある意味で重いかも」
「ある意味でって」
「何か、俺が参ってる時には絶対気づいてくれるあたりとか。こんな子泣かせたら、男としてどうなの、俺。ってプレッシャー感じる程度に重い」
「……褒められてんのか、けなされてんのか」

 からかうように笑った亮介に、頭を撫でられる。
 その目に、今まで消えていた慈しみの光のようなものが見えた。それだけで、この小さな約束を信じるには十分だった。

「逆に聞くけど、俺でいいわけ? 本当に」
「何度も言わせないでよ。亮介じゃないと、駄目なんだってば」
「心配ばっかかけてっけど?」
「慣れた。それに、こんなに心配ばっかかける男に付き合えるの、私くらいだよ。そう思えば、私が特別みたいで、ちょっと楽しい」

 彼が自分を特別扱いしてくれるのは、何をやっても見捨てず、味方でいるからだ、と思う。それがなければ、きっととっくの昔に飽きられて、亮介とは今一緒にいなかっただろう。
 彼がいまだに仲良くしている女の子は大勢いるようだが、それでも彼女だと言ってもらえるのは、今は自分だけだ。優越感を覚える日もある。それほど、彼のことが好きなのだ。そんな自分に戸惑う日もあるが、こうして人を好きになれたことが、何よりも嬉しい。心をくすぐっていく。

「じゃ、まとまったところで、帰ろうか」
「あっ、いや、ちょっと」
「ん? 何かもう私ね、亮介に別れ話されるんじゃないかって怖かったから、今は安心しちゃってね。今日はよく眠れそうだよ」
「いや、別れ話とかするわけねえし。のこと好きだし。じゃなくてさ、ほら」

 腕を掴んで離さない亮介を見返して、首を傾げる。まだ何か話があるのか。そう尋ねようとしたとき、体が抱き寄せられて、唇が触れていた。
 目を閉じる間もなかった。気づけば至近距離で目が合っていて、この距離感がずいぶんと久しぶりだということを思い知らされたような気分になったのだ。

「――亮介」
「いや、ずっと我慢してたんだって。最近ずっと傷つけてばっかだったし、資格もないかなーって思ってたんだけど。あー、嫌、だったとか?」
「あ、ううん……ほんと、そういえば久しぶりだから、びっくりして」

 遅れて鼓動が高鳴り始めた。
 近くで見た亮介の目が忘れられない。

「ってことで、もう一回、どうよ」
「……え、うん」

 とりつかれたように、頷いてしまった。
 手を握り合って、ゆっくりと目を閉じる。伝わってくる体温に集中して、受け入れた。
 しばらくして距離を置いたとき、もはや誤魔化しきれないほどに、指先まで熱が伝わっていた。手を離すのが惜しい。ずっと握り締めていたい、と思うほどに。
 そんな思いをこめて、彼の目を見つめる。照れつつも微笑むと、真剣な表情のまま、彼は言った。

「……
「ん?」
「とりあえず、今から俺んちに来ませんか」

 その言葉の意味を、しばし考える。が首を傾げて眉間に皺を寄せる一方で、亮介は期待に満ちた目をして、今にも立ち上がりそうな状態で手を握っていた。
 彼のその様子から、察してしまった。この状況から家に連れて行かれて、どうなるかがわからないほど子供ではない。
 ――つまり、だ。

「ああ、なるほど、そういうこと?」
「そういうこと」

 動揺を隠して、ニコリと微笑む。
 それを承諾の意ととったのか、亮介もまた、合わせるようにニコリと笑った。
 だが、甘い。
 傍らに置いていたスクールバッグを掴んで、まるで盾のように掲げて二人の間を遮断した。

「絶対、嫌」

 言うが早いか、亮介の手を振り払って立ち上がる。
 ぽかんとした様子の亮介が、ワンテンポ遅れて立ち上がった。

「えっ、ちょっと、ちゃーん」
「他は何だろうと受け入れるけど、それだけは簡単に受け入れられない!」

 そりゃねえよ、という、悔しさを滲ませた亮介の声が夜空に響き渡った。





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