金子の用意した練習用Tシャツを、矢代が捨ててしまった。完全な拒絶だった。
 ここで、それまで何とか前向きに保たれていた彼の心が、折れてしまったのは明白。金子は、その日の練習から、更に力をなくしていた。
 組み技の練習でも、やはり跳べない。マットの上で力なく手をつく彼を見ながら、は小さく息を吐き出した。

先輩、このままじゃ……」
「うん……どうすればいいんだろう」

 事態は何も好転していない。
 金子は跳べない、新体操部にかかった疑いも消えない、関東大会の出場辞退――たった一人の男の存在で、何もかもが狂ってしまった。これまで積み上げてきたものが、音を立てて崩れていく。今は何とか保ってはいるが、そのうち耐え切れなくなるのではないだろうか。
 そのときだ。体育館の扉が、開いた。
 入ってきたのは、新体操部の顧問二人と、教頭だった。暗い顔をした柏木が、俯きがちに言葉を発する。

「……教頭先生から、お話しがあります」

 嫌な予感が、全身に走った。

「残念だが、大会は……辞退するという方向で!」

 生徒たちからの視線から逃げるように、教頭は目を瞑った。
 もちろん部員たちは皆反発した。彼らは潔白だ。身に覚えのないことで辞退を迫られて、納得できるはずがないだろう。
 だが、その潔白を証明するものが、何もないのだ。
 矢代がやったのではないか、いまだそんな思いが振り払えないが、証拠がない。何より、金子が違うと信じているのだ。ならば、それを信じてやらなければならないだろう。例え、状況証拠が矢代をさしていたとしても。
 全員が、口を閉ざした。それを見計らうかのように、再び体育館の扉が開く。今回入ってきたのは、矢代だった。
 思い浮かべていた人物が現れたことで、は動揺した。それは全員が同じだったようで、全ての視線が矢代に集まった。だが、彼はその視線を無視し、マットへ近寄ってくる。その手には、ライターと、補充用のオイルが入った缶。

「てめえ、何する気だよ!」
「うっせえ!」

 航の言葉を跳ね返し、彼はライターの蓋をカチカチと開け閉めしている。
 それを見て、嫌な想像が頭の中に広がる。呼応するかのように、心臓も大きく脈打ち始めた。
 まさか、矢代はマットに火を放つのでは。
 息を呑み、彼の様子を見つめる。航は、今にも飛び出しそうだ。
 彼の手が、缶の蓋に伸びる。
 それを遮ったのは、金子の叫び声だった。

「孝ちゃん!」

 二人の視線が交わる。そこには、何か重い葛藤のようなものが見受けられた、ような気がした。
 矢代の手が止まり、金子が声を震わせる。
 最後のチャンスだ。金子が、矢代の心を動かすなら、ここしかない。
 長い沈黙だった。
 金子を見つめたまま動きを止めていた矢代が、唐突に手に持っていたものを、投げ出した。
 彼の瞳が震えている。戸惑ったような、怯えたような、そんな色があった。そして彼は言った。

「――俺だ」

 小さな声で発せられたその一言に、誰もがはっとした。繰り返すように、矢代は、俺がやったんだ、と続ける。
 これまで新体操部がかけられた疑いは全て、自分が仕組んだものだ、と彼は語った。

「嘘だ……」

 信じていた友人に裏切られた思いからか、金子の声が再び震える。

「そんなの嘘だよ!」

 過去とは変わってしまった友人、そしてそんな彼をずっと信じていた自分。
 裏切られたという思いよりも、やはり友人が本当に変わってしまったことに対するショックのほうが大きかったに違いない。

「何でそんなことしたんだよ」
「どうでもいいだろ。……ただ、お前らが気に入らなかっただけだよ」

 そう語る彼が、何故自分たちを気に入らなかったのか、それはわからない。彼が変わってしまうまでのことを、何も知らないのだから。
 ただ、彼の言葉には、深い悲しみが感じられた。
 力なく、嘘だと繰り返す金子。一瞬金子を見た矢代だったが、すぐに振り返り、教頭たちを見た。逃げようとしているのかもしれない、自分が裏切ってしまった親友の傷ついた姿から。

「こいつら何もやってねえ。だから……辞退を取り消せよ。俺が退学すりゃいいだろ!」

 それが、彼なりの責任の取り方なのか。だが、傷ついた金子の心は、救えない。
 教頭に連れ出される彼は、金子のことを見ようともしなかった。
 やはり、逃げているだけだ。金子からも、新体操部からも、そして彼を変えてしまった何かからも。

「孝ちゃん!」

 金子の呼びかけにも、何も答えなかった。

「矢代! ちょっと待て!」

 だが、航の呼び止める声に、彼は立ち止まる。

「金子……。矢代に見せてやれよ。お前のジャンプ」

 振り返った航が、金子の背中を押す。それと同時に、矢代の背中も、彼は押そうとしていたのかもしれない。
 しかし、金子はまだ一度も跳べていない。失敗を恐れた彼は、ここでもまた俯いてしまった。
 そんな彼の背中を押し、支えるのは、航だけではない。
 亮介が、金子を呼んだ。

「やるぞ」

 彼の一言に続くように、全員が金子に笑顔を向けた。

「頑張ろうぜ金子!」
「しっかり跳ばしてやっからなー!」
「ぶつかっても構いませんから」
「思いっきり跳べ」

 続いて、マットの外で見守る土屋が、穏やかに頷いて見せた。
 航もまた、金子の名前を呼び、勇気付けるように頷く。
 決心がついたようだ。仲間の下へ向かう金子に、最後に悠太が激励の言葉を与えた。
 金子が信じた仲間だ。かつて彼を変えた矢代のように、彼を支え、共に目標に向かって歩んできた仲間たちだ。信じるに値するつながりがあった。
 それでも、不安はあった。何度も重ねた失敗、一度は入った亀裂。ポジションについた金子が、足踏みをしているのが目に見えてわかった。
 そして、最後にその背中を押すのが、矢代だ。

「敦!」

 初めて呼ばれた名前に、金子が顔を上げる。

「びびってんじゃねーよ! もう遊んでやんないぞ」

 彼らにとって、思い出に残る言葉だった。そしてそれは、再び動き始めた時間の証。
 ここにも確かに、強いつながりがあったのだ。
 小さく頷いた金子が、行きます、と囁くように言う。それを合図に、全員が動き出し、金子の手が、亮介と日暮里の肩にかかった。
 息を合わせて、踏み込む。
 金子は、大きく跳んでいた。
 火野の上を越え、手足を大きく広げ、高く跳んでいた。
 部員たちの歓喜の声が、体育館中に響き渡った。
 隣に立っていた土屋が、金子のほうへと走っていく。航も悠太も、他の部員たちも、金子に飛び掛っていた。彼らの表情には、久しく見えなかった明るい笑顔があり、もまた微笑む。

! 何ぼーっと突っ立ってんの!?」
「えっ、私はいいよ!」

 一人だけ輪の外にいるを、亮介が呼ぶ。だが、流石にあの中には飛び込めなかった。
 代わりに、金子に向けて笑いかける。彼は嬉しそうに何度も頷いた。あの暗い表情は、もうどこにもない。新体操部にかかっていた暗雲は、この瞬間に、全て振り払われたのだ。
 あとは、三週間後の関東大会に向けて、全力で走るだけだ。
 この先、更なる試練が待ち受けているとは知らず、彼らは皆、笑っていたのだ。



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