鷲津学院の新体操部が、烏森の体育館を使用したいという依頼をしてきた。
 何の相談もなく承諾してしまった柏木に、部員たちには反発する者もいたのだが、最終的に受け入れることとなった。鷲津の演技はレベルが高いので、結果的に自分たちにとっても見学することでプラスになるのではないかという考えもあってのことだった。

「悠太くん、私、今日は部室で領収書の整理とかしてていいかな?」
「ああ、いいよ。必要になったら呼ぶから、こっちのことは気にしなくていい」
「ありがとう」

 普段から練習に関わることは少ないのだが、今日は特にそうだ。鷲津の練習を大人しく見ていても、ただ感嘆するだけ。選手ではない自分に、得るものはあまりないだろう。そう判断して、今日は部室で溜まっている仕事を片付けることにした。
 鷲津の選手たちは既に到着していて、柔軟運動の最中だ。烏森の部員たちは、鷲津が練習を始めるまでの短い間、マットを使っての練習をしていた。
 体育館を出て、部室に向かう。
 その途中で、呼び止められた。



 その声は、聞きなれた部員のものではなく。かといって、クラスメートのものでもなく。
 はゆっくりと振り返った。何か嫌なもの、というか、違和感のようなものを覚えたのだ。
 だが、振り向いてみれば、呼んだ人物は決して嫌な人物ではなく――苦手ではあったが、悪い人ではないと思っている人物、鷲津学院の鶴見だった。

「えっ、あ、鶴見くん。はい、何でしょう……あっ、もしかしてあいつらがまた何か!」

 鶴見から彼らに喧嘩を売ることも多いのだが、どちらかというとやはり、烏森の部員のほうが血の気が多く、鶴見や鷲津に突っかかっていくことのほうが多いと思う。だから、今回もまた、部員たち、主に航や亮介や日暮里が突っかかったのではと思ったのだ。
 だが、鶴見は早合点して頭を下げようとするを呆れたように見下ろし、

「お前も相当心配性だな……」

と言った。
 心配性、確かにそうだ。過保護の域にすら入っているかもしれない。
 航たちがむやみやたらと喧嘩を売ることは少なくなったとはいえ、やはり彼らに散々心配をかけられた身としては、心配性になってしまうのも無理はないだろう。

「悪い、テーピングを分けてもらえないか?」
「あ、はい。いいけど……珍しいね、鶴見くんが、というか鷲津の人がそういうの忘れるって」
「そういう日もある」

 確かに。そう納得して、は部室に戻った。使いかけのものを渡すわけにもいかないだろうから、部室に置いてある新品を渡そうと思ったのだ。

「はい、これ」
「悪いな。必ず返す」
「いや、いいよ」

 テーピングの一つや二つ。そう言うと、鶴見は真面目な表情のまま、厳しい口調になった。

「備品の管理はマネージャーの仕事だ」
「は、はい!」
「たった一つがなくなっただけで、大怪我に繋がることもある」

 キャプテンの顔だ。まさか叱られるとは思っていなかったが、つい見とれてしまった。
 部員にこうして叱られたことなど、ない。もちろん意見を言い合ったりすることはあるが、彼らはあまりマネージャー業務に口出しをしてこないし、やり方についても任せられている。だから、こうして他校のマネージャーといえども臆することなく叱った鶴見が、新鮮だった。
 が、鶴見はに見つめられて我に返ったようで、一瞬だけ目を泳がせた。

「悪い。他校のことに口出しすべきじゃないな」
「あ、いや、むしろ新鮮なので。もし気づいたことがあれば、教えてもらえると……って、そんな暇ないか」

 鷲津の練習を見ても得るものはない。そう思っていたが、実はそうでもないのかもしれない。

「じゃあ、頑張ってください」
「ああ」

 鶴見はそのまま身を翻すと、体育館へと戻っていった。
 やはり、彼は悪い人ではない。厳しさを隠すことをしないだけだ。それゆえに他人を傷つけるような言葉も出てくる。そこを肯定してやることはできないが、彼の厳しさやプライドを知っているにとっては、許容範囲ではあった。
 だからといって、鷲津全体を好きになることはできないのだが。
 部室に戻って、予定通り仕事を始めた。そして、しばらく経った後、扉が開いて木山が入ってきた。

、テーピングないか?」
「え、うちのも切れてた? ごめん」

 一瞬怪訝そうな表情をした木山だったが、がロッカーから取り出した新しいテーピングを受け取り、すぐに部室を出て行こうとした。それを呼び止める。

「怪我してる?」
「……いや、少し手首に違和感があるだけだ。痛みはない」
「そう、ならいいんだけど……。無理しないでね、大会前で焦ってるかもしれないけど」

 以前怪我をした手首を、また傷めてしまったのかと思ったが、木山はけろりとしている。普段からあまり表情が変わらないので、彼の場合、怪我をしていても見逃してしまいそうだ。

「巻くの手伝おうか?」
「できんのか?」
「こないだ保健室で土屋くんと一緒に勉強したからね」

 木山を疑うわけではないが、本当に怪我ではないのなら、見せられるだろう。彼のことだ、部員たちに心配をかけたくないという理由で黙っておくに違いない。ならば、せめて自分だけでも把握しておきたい。それが抑止力になるとも思えないが。
 木山は、躊躇ったようだ。自分の手首との顔を見比べ、少しの間黙り込んだ。

「……いいのか?」
「は?」

 何が、と問う前に、木山にテーピングを渡された。

「あんまり俺にばっか構ってると、月森が拗ねるだろ」
「……え」

 以前にもそんな台詞を聞いたような気がするが、あれ以上にドキリとしたのは、やはりこの間の亮介とのやり取りを思い出したからだろうか。
 全部俺のもの、と言われたあの時の声が、鮮明に蘇る。顔が熱くなったことに、木山が気づいていませんように。ただ、動揺は声に出た。

「な、何言ってんの」
「月森が散々のろけてたからな」
「!? なっ、嘘、うそぉ!?」

 あまりの恥ずかしさに頭を抱えて座り込む。
 あの全てが筒抜けだったとしたら、恥ずかしすぎて、部員たちの顔を見ることができない。
 頭が混乱して、顔はますます熱くなった。
 これはもう、木山に口止めを――いや、他の部員も聞いたのなら意味はない、ならばせめて忘れてくれと言うしかない。
 そう思って顔を上げただったが。

「――あれ?」

 木山は、既にそこにはいなかった。
 少し冷静になった頭で考える。これはまさか――

「……騙された上に、かわされた?」

 壁に額をぶつける。ひんやりとした感覚が頭を冷やし、はようやく落ち着いた。
 結局、木山が怪我をしているのではないかという疑惑は、確かめることができなかった。そして、こうして誤魔化されたということは、やはり木山は怪我をしているのかもしれない。
 胸の内に溜まったものを、ため息として吐き出した。




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